尼子元知
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 |
元亀3年(1572年) または 慶長3年(1598年) |
死没 | 元和8年5月13日(1622年6月21日) |
改名 | 尼子元知→久佐元知 |
別名 | 将監 |
戒名 |
冷巌樹芳大禅定門 または 冷巌寺殿樹芳大居士 |
墓所 | 訂心寺(山口県長門市渋木) |
主君 | 毛利輝元→秀就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 尼子氏 |
父母 |
父:尼子倫久、母:山内元通の娘 養父:尼子義久 |
兄弟 |
元知、佐々木宗久、宍道就兼室、 谷本重久 |
妻 | 井原伯耆守の娘 |
子 | 養子:佐々木就易(宍道就兼の子) |
尼子 元知(あまご もとさと)は、安土桃山時代後期から江戸時代初期の武将、長州藩士。尼子氏7代当主。尼子倫久(晴久の次男)の長男。母は山内元通の娘。正室は井原伯耆守の女。
生涯
[編集]毛利家の意向により、元知は伯父である尼子義久の養子となり尼子氏を継いで、毛利輝元に仕えることとなった。輝元から偏諱(「元」の字)を与えられて元知と名乗る。妻との間に子がなかったので、甥(妹の子)の宍道孫三郎就易を養子とした。慶長元年(1596年)石見銀山御番所の支配頭となった。
この番所が石見国那賀郡久佐にあったので、村人は元知を「久佐の将監様」と呼び、元知自身も久佐将監と名のるようになった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い後、毛利家が防長二州に削封され、石見銀山が徳川家の領地となったため、毛利家と共に防長二州へ移り、元和8年(1622年)5月13日に長門国で没した。享年51(一説に享年25)。法号は冷巌樹芳大禅定門(れいがんじゅほうだいぜんじょうもん)または冷巌寺殿樹芳大居士。墓所は山口県長門市渋木の訂心寺(ていしんじ)にある。尼子元知の没年月日・没年齢・法号については、山口県萩市在住であった田中助一(郷土史家)の研究文書による。