小鳥サワ
ことり サワ 小鳥 サワ | |
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生誕 |
1919年6月8日 北海道 |
死没 | 2007年5月10日(87歳没) |
死因 | 肺炎 |
国籍 | 日本 |
民族 | アイヌ |
活動期間 | 1949年 - 1992年 |
時代 | 昭和 - 平成 |
団体 | 阿寒アイヌ民族文化保存会 |
著名な実績 | 阿寒アイヌ民族文化保存会でのアイヌ文化の伝承や保存など |
影響を与えたもの | 西田香代子 |
活動拠点 | 北海道釧路市阿寒町 |
受賞 |
阿寒町文化功労賞(1986年) アイヌ文化奨励賞(1998年) アイヌ文化賞(2006年) |
小鳥 サワ(ことり サワ、1919年〈大正8年〉6月8日[1] - 2007年〈平成19年〉5月10日[2])は、日本のアイヌ文化伝承者。阿寒アイヌ民族文化保存会の礎を築いた人物の1人であり、同会や阿寒アイヌ語教室で、長年にわたって指導者として活躍した。テレビの料理番組を通じてのアイヌ文化の紹介や、後進の育成にも貢献した。
経歴
[編集]北海道の阿寒湖畔で誕生した。家は貧しく、子供の頃から母を助け、家で作った菓子を売り歩くなどして働いた[3]。阿寒湖畔小学校に入学後[4]、アイヌであることを理由にいじめに遭うが、いじめられてもやり返す、勝気な性格であった[3]。19歳で結婚[3]、1943年(昭和18年)に夫の出稼ぎで樺太に渡った[4]。翌1944年(昭和19年)には常呂町(現・北見市)に移り[4]、戦後しばらくは弟子屈町で暮らしていた[3]。
1949年(昭和24年)、阿寒伝統の祭典である「まりも祭り」に初めて参加し、以来、48年にわたって参加し続けた[5]。1950年代後半に阿寒にコタン(アイヌの集落)ができると、古式舞踊の踊り子として阿寒に戻った[3]。
1955年頃より、アイヌの歌や舞踊の伝承に力を入れ始めた。1960年代からは、アイヌ生活記念館でのアイヌ民族伝統の古式舞踊に参加した。舞踊は、幼少時に見ていたために自然におぼえたという[3]。
1979年(昭和54年)に、阿寒アイヌ民族文化保存会への協力を始め[1]、同会での指導者としての役割を担うようになった[1]。その後もアイヌ文化にまつわる書籍、記録映画、テレビ番組への協力などで、アイヌの食文化や精神文化を広め、アイヌ文化の伝承や保存などに貢献した[1]。また、幼児、小学生、中学生にアイヌ文化を指導することで、この教えを受けた子供たちが、後年に指導者として活躍することとなった[1]。刺繍作家の西田香代子も、その指導を受けた1人である[5]。
1992年(平成4年)に現役を引退した[3]。晩年はアイヌ料理のテレビ番組などに多数、出演した[6]。2007年(平成19年)5月、肺炎のため87歳で死去した[2]。同2007年7月に死亡叙勲が決定し、釧路市教育委員会での伝達式で、娘3人が勲記と木杯を受け取った[7]。
受賞
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f “平成18年度 アイヌ文化賞 小鳥サワ”. アイヌ民族文化財団 (1998年). 2024年3月7日閲覧。
- ^ a b 「小鳥サワさん死去」『朝日新聞』朝日新聞社、2007年5月11日、北海道朝刊、27面。
- ^ a b c d e f g 「阿寒湖畔界わい フチは踊りの名手 民族の心 受け継ぐ」『北海道新聞』北海道新聞社、1995年8月15日、釧A朝刊、22面。
- ^ a b c 久田徳二「ピヤラ 小鳥サワさん 阿寒のフチ(おばあさん)自然への感謝 大切に」『北海道新聞』2006年9月5日、夕東夕刊、9面。
- ^ a b c 西田香代子『西田香代子のテケカラペ』(ポケット版)クルーズ、2013年12月12日(原著2007年3月22日)、48頁。ISBN 978-4-905756-67-5。
- ^ 久田徳二「哀惜 小鳥サワさん(アイヌ文化賞受賞者)5月10日死去 87歳 伝承に心血注いだフチ」『北海道新聞』2007年5月26日、全道夕刊、4面。
- ^ 近藤憲治「アイヌ文化の保存・普及に尽力 故小鳥サワさんに叙勲 遺族ら出席し伝達式 釧路」『北海道新聞』2007年7月7日、釧C朝刊、29面。
- ^ 溝口徹「この人 民族の誇りを伝える アイヌ文化奨励賞を受賞 小鳥サワさん」『北海道新聞』1998年10月29日、釧B朝刊、21面。
- ^ “平成10年度 アイヌ文化奨励賞(個人)小鳥サワ”. アイヌ民族文化財団 (1998年). 2024年3月7日閲覧。