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小須田勝造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小須田 勝造(こすだ かつぞう、1886年明治19年)2月20日[1][2] - 1977年昭和52年)12月26日[1][2])は、日本の陸軍軍人実業家。最終階級は陸軍中将

経歴

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長野県出身[1][2][3]。小須田馬之助の二男として生れる[1]麻布中学校を経て、1907年明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を次席で卒業[1][2][4]。同年12月、陸軍砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる[1][4]1911年(明治44年)11月、陸軍砲工学校高等科(第17期)を優等で卒業[3][5]1912年大正元年)9月、陸軍派遣学生として東京帝国大学理科大学に入学し、1915年(大正4年)7月、同物理学科を卒業した[3][6]

1920年(大正9年)7月から1922年(大正11年)3月まで兵器検査官としてアメリカに駐在[1]。1922年5月、大阪砲兵工廠員に転じ、1923年(大正12年)3月、砲兵少佐に昇進[1]1925年(大正14年)5月、陸軍造兵廠十条製造所長に就任し、1927年昭和2年)7月、砲兵中佐に進級[1]1930年(昭和5年)4月、陸軍技術本部アメリカ駐在官に発令された[1][3]1931年(昭和6年)3月、砲兵大佐に昇進[1][3]

1933年(昭和8年)11月、小倉工廠東京兵器製造所長となり、小倉銃器製造所長、技術本部第3部長を歴任[1][3]1935年(昭和10年)12月、陸軍少将に進級[1][3]1936年(昭和11年)8月、技術本部第1部長に転じ、1938年(昭和13年)12月、陸軍中将に進み造兵廠長官に就任[1][2][3]1940年(昭和15年)4月、造兵廠が陸軍兵器廠に統合され、新設の陸軍兵器本部次長に転じ太平洋戦争を迎えた[1][2][3]

1942年(昭和17年)7月、兵器本部長に就任し、同年10月、新設の陸軍兵器行政本部長となる[1][2][3]1940年(昭和15年)8月から翌月まで相模陸軍造兵廠長事務取扱を兼務した[3]1943年(昭和18年)3月、予備役に編入[1][2][3]。同年12月、日本製鐵取締役に就任し、さらに1944年(昭和19年)8月、同副社長となった[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[7]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本陸海軍総合事典』第2版、63-64頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』305頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』241頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』238、241頁。
  5. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版。63、637頁。
  6. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版。63、612頁。
  7. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。