小野門之助
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小野 門之助 おの もんのすけ | |
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生誕 |
1896年3月23日 日本、東京府 |
死没 |
1944年12月15日(48歳没) 日本、鹿児島県 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1917年 - 1944年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
小野 門之助(おの もんのすけ、1896年(明治29年)3月23日 - 1944年(昭和19年)12月15日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。陸軍航空界における空中写真判読の権威として知られている。
経歴
[編集]1917年(大正6年)5月25日に陸軍士官学校(29期)を卒業し、同年12月25日に砲兵少尉に任官、野砲兵第3連隊付となる[1]。1921年(大正10年)4月1日に砲兵中尉に昇進し[2]、1924年(大正13年)8月20日に下志津陸軍飛行学校教官に補され[3]、1925年(大正14年)5月に航空兵中尉に転じる。1926年(大正15年)2月26日、日本写真学会の前身である東京寫眞學會の創立総会に参集[4]。
1926年(大正15年)8月6日に航空兵大尉に昇進[5]後、陸地測量部部付兼勤[6]などを経て、1934年(昭和9年)8月1日に航空兵少佐に昇進、下志津陸軍飛行学校研究部部員兼任となる[7]。1938年(昭和13年)7月15日に航空兵中佐に昇進[8]。
その後、飛行第75戦隊戦隊長、第2飛行師団第6飛行団司令部団長などを歴任したが、1944年(昭和19年)12月15日に航空事故のため奄美大島にて死去し、没後陸軍少将に進級し従四位に叙せられた[9]。
栄典
[編集]- 1918年(大正7年)2月20日 - 正八位[10]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 勲六等単光旭日章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[11]
- 1921年(大正10年)5月20日 - 従七位[12]
- 1926年(大正15年)
- 1931年(昭和6年)7月15日 - 従六位[15]
- 1933年(昭和8年)9月4日 - 勲四等瑞宝章[16]
- 1934年(昭和9年)4月29日 - 功五級金鵄勲章・旭日小綬章・昭和六年乃至九年事変従軍記章[17]
- 1936年(昭和11年)8月1日 - 正六位[18]
- 1939年(昭和14年)4月13日 - 勲三等瑞宝章[19]
脚注
[編集]- ^ 『官報』第1621号、大正6年12月26日。
- ^ 『官報』第2598号、大正10年4月2日。
- ^ 『官報』第3599号、大正13年8月21日。
- ^ 鎌田, 彌壽治 (1953). “日本写眞文化史 (I)”. 日本写真学会会誌 16 (2): 35–38. doi:10.11454/photogrst1934.16.35.
- ^ 『官報』第4187号、大正15年8月7日。
- ^ 「陸地測量部職員表 昭和6年4月1日調(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13070912200
- ^ 『官報』第2276号、昭和9年8月2日。
- ^ 『官報』第3460号、昭和13年7月16日。
- ^ 「故陸軍少将岡田博二外四名位階追陞の件(国立公文書館)」 アジア歴史資料センター Ref.A12090578700
- ^ 『官報』第1664号、大正7年2月21日。
- ^ 『官報』第2516号附録、大正9年12月20日。
- ^ 『官報』第2641号、大正10年5月23日。
- ^ 『官報』第4151号、大正15年6月25日。
- ^ 『官報』第4285号、大正15年12月4日。
- ^ 『官報』第1394号、昭和6年8月21日。
- ^ 『官報』第2005号、昭和8年9月5日。
- ^ 『官報』第2450号附録、昭和10年3月6日。
- ^ 『官報』第4151号、昭和11年8月17日。
- ^ 『官報』第3683号、昭和14年4月18日。