小野耕一郎
小野耕一郎 おの こういちろう | |
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生年月日 | 1883年4月1日 |
出生地 |
日本 三重県一志郡下ノ川村 (現三重県津市美杉町下之川) |
没年月日 | 1945年1月21日(61歳没) |
出身校 |
三重県立津中学校卒業 (現三重県立津高等学校) |
前職 | 農業 |
所属政党 | 立憲民政党 |
選挙区 | 三重県第1選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1930年2月 - 1932年1月21日 |
当選回数 | 6回 |
久居町長 | |
下之川村長 | |
下之川村会議員 |
小野 耕一郎(おの こういちろう、1883年(明治16年)4月1日[1][2] - 1945年(昭和20年)1月21日[2][3][4])は、明治末から昭和前期の農業経営者・政治家。衆議院議員、三重県一志郡下之川村長、同郡久居町長。
経歴
[編集]三重県[3]一志郡下ノ川村(下之川村[5][6]大字下之川[1]、美杉村[2]大字下之川を経て現津市美杉町下之川)で、豪農[5]・小野耕平の長男として生まれ[7]、1902年(明治35年)三重県立津中学校(現三重県立津高等学校)を卒業し[3][4]、同年に家督を相続し[7]農業を営む[3][7]。
下之川村産業組合長、地方森林会議員、一志郡木炭同業組合長、三重県木炭同業組合連合会評議員、産業組合中央会三重支部理事、三重県海外協会理事、同海外移住組合理事などを務め[1][2][3][4][5][6][7]、農事の改善、産業振興に尽力した[5]。
政界では、1906年(明治39年)3月、下之川村助役に就任[2][6]。以後、下之川村会議員、同学務委員、同村長、土地収用審査委員、三重県結核予防協会評議員、一志安濃河芸三郡土地貸借価格調査委員会会長、久居町長、一志郡町村長会長、一志郡教育会長などを務めた[1][2][3][4][6]。
1930年(昭和5年)2月、第17回衆議院議員総選挙では小屋光雄の辞退により立憲民政党の公認となり三重県第1区から出馬して当選[2][4][8]。1932年(昭和7年)2月の第18回総選挙(三重県第1区、立憲民政党公認)に立候補したが次点で落選し[9]、衆議院議員に1期在任した[3][4][6]。
また、三重県会議員に1915年(大正14年)10月、初当選して通算6期在任し[2]、1945年1月、6期目の在任中に死去した[2]。
三重県会選挙歴
[編集]- 1915年10月当選(1期)[2]
- 1919年9月当選(2期)[2]
- 1923年9月当選(3期)[2]
- 1935年9月当選(4期)[2]
- 1939年11月当選(5期)[2]
- 1943年11月当選(6期)[2]
脚注
[編集]- ^ a b c d 『三重県紳士録 前編』211頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『三重県議会史 第3巻 上』歴代議員略歴写真91-92頁。
- ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』113頁。
- ^ a b c d e f 『日本政治史に残る三重県選出国会議員』125-126頁。
- ^ a b c d 『東京横浜三重県人評伝』649-650頁。
- ^ a b c d e 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』84頁。
- ^ a b c d 『人事興信録 第9版』オ37頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第17回』183頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第18回』181頁。
参考文献
[編集]- 服部英雄編『三重県紳士録 前編』三重県紳士録編纂会、1916年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第17回』衆議院事務局、1930年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第18回』衆議院事務局、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 蒲生隆宏編著『東京横浜三重県人評伝』三重県人雑誌社、1930年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 三重県議会史編さん委員会編『三重県議会史 第3巻 上』三重県議会、1970年。
- 廣新二『日本政治史に残る三重県選出国会議員』廣新二、1985年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。