小野義成
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時代 | 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 承元2年閏4月3日(1208年5月19日) |
別名 | 野三左衛門尉、小野大夫判官[1][2] |
氏族 | 横山氏 |
父母 | 父:小野成綱 |
兄弟 | 義成、盛綱、女子(梶原景高妻)[3] |
子 | 成時[1] |
小野 義成(おの よしなり)は、鎌倉時代初期の武将。横山党。
経歴
[編集]弓を能くし、建久3年(1192年)1月の御的始では射手を務めた[1]。間もなく、上洛したものと推定され、源頼朝没後の正治元年(1199年)2月、土御門通親襲撃を謀ったが、発覚し一条家の家人後藤基清や中原政経らと共に鎌倉に送られ、のち配流となった[1]。これを三左衛門事件と呼ぶ。間もなく赦され、元久2年(1205年)閏7月、北条時政の失脚を九条良経に伝えている[1]。
翌年の建永元年(1206年)9月に延暦寺の堂衆が蜂起すると院御所を警固し、子の成時と共に謀反人の八島時清を法性寺付近で討った[1]。承元元年(1207年)1月、従五位下に昇叙され、この頃より子の成時と共に後鳥羽上皇に仕え、成時は同月に院御所で行われた笠懸の射手を務めた[1]。義成は検非違使となり、防鴨河使を兼任したが、承元2年(1208年)閏4月3日[2]京都で没した[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、1985年。ISBN 4404013027。
- 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496。