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小野義成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小野義成
時代 鎌倉時代初期
生誕 不明
死没 承元2年閏4月3日1208年5月19日
別名 野三左衛門尉、小野大夫判官[1][2]
氏族 横山氏
父母 父:小野成綱
兄弟 義成盛綱、女子(梶原景高妻)[3]
成時[1]
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小野 義成(おの よしなり)は、鎌倉時代初期の武将横山党

経歴

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弓を能くし、建久3年(1192年)1月の御的始では射手を務めた[1]。間もなく、上洛したものと推定され、源頼朝没後の正治元年(1199年)2月、土御門通親襲撃を謀ったが、発覚し一条家の家人後藤基清中原政経らと共に鎌倉に送られ、のち配流となった[1]。これを三左衛門事件と呼ぶ。間もなく赦され、元久2年(1205年)閏7月、北条時政の失脚を九条良経に伝えている[1]

翌年の建永元年(1206年)9月に延暦寺の堂衆が蜂起すると院御所を警固し、子の成時と共に謀反人の八島時清法性寺付近で討った[1]承元元年(1207年)1月、従五位下に昇叙され、この頃より子の成時と共に後鳥羽上皇に仕え、成時は同月に院御所で行われた笠懸の射手を務めた[1]。義成は検非違使となり、防鴨河使を兼任したが、承元2年(1208年)閏4月3日[2]京都で没した[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 安田 1985, 113頁.
  2. ^ a b 上田ほか 2001, 456頁.
  3. ^ 安田 1985, 112頁.

参考文献

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  • 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、1985年。ISBN 4404013027 
  • 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496