小野秀太郎
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小野 秀太郎(おの ひでたろう、1886年〈明治19年〉9月20日[1] - 没年不詳)は、明治時代の日本の官吏、ジャーナリスト、教育者。台湾総督府郵便電信書記官[2]、朝日新聞社外報部記者、台湾銀行通信員、スタンダード・オイル通信員、立教大学教授[3][4]。英文通信の権威として知られ[3]、教育者として商業英語を教えた[5]。
人物・経歴
[編集]茨城県西茨城郡、のちの南川根村で小野祐太郎の長男として生まれた[1]。
1897年(明治30年)10月まで、台湾総督府郵便電信書記官を務める[2]。
その後、朝日新聞社に入り、外報部記者を務めた[4][6]。そのほか、日本における英文通信の権威として、台湾銀行や米国のスタンダード・オイル社の東洋通信員を務めた[3]。
1925年(大正14年)には、母校の立教大学に招聘され[3][4]、商学部(現・経済学部、経営学部)教授として商業英語を隅本とともに2氏で担当した[5]。
立教大学出身の新聞・雑誌関係者で組織するアルファ会に、永井万助(朝日新聞社外報部長)や、生駒粂蔵(報知新聞社調査部長)らと所属した[6]。
主な著作
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 『大衆人事録 第10版』帝国秘密探偵社ほか、1934年、オ34頁。
- ^ a b 国立台湾歴史博物館 『郵便電信書記小野秀太郎外數名任免』
- ^ a b c d e 『立教大学新聞 第9号』 1925年(大正14年)1月5日
- ^ a b c 『立教大学新聞 第10号』 1925年(大正14年)1月20日
- ^ a b 『立教大学新聞 第29号』 1926年(大正15年)3月15日
- ^ a b 『立教大学新聞 第16号』 1925年(大正14年)5月15日