小野欣助
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小野 欣助(おの きんすけ[1]、1917年 - 1945年3月10日[2]) は、日本の元アマチュア野球選手、大日本帝国陸軍[3]軍人。早稲田大学野球部で捕手として活躍した人物である。大阪府出身。
来歴・人物
[編集]八尾中学(現・大阪府立八尾高等学校)を経て、1937年、早稲田大学に入学[1]。壺井重治とは八尾中、早大の4年先輩に当たる。1939年秋季シーズンでは、打率.389をマークし、首位打者のタイトルを獲得した[1][4]。南村不可止(後に侑広と改名し、西日本と巨人でプレー。早大在学時より「黒バットの南村」として有名だった。)とは同期であり、中軸打線を組んで早大の黄金時代に大きく貢献した。また早大野球部史に残る投手・松井栄造(1943年に中国で戦死)とはよくバッテリーを組んでいた[2]。
早大卒業後に応召。その後、大日本帝国陸軍特別攻撃隊に編入し、1945年3月10日に台湾・台中上空にて、特攻訓練中に墜落死(戦死扱い)した。享年27[1]。
東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、壺井と共に彼の名前が刻まれている[5]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 戦没野球選手慰霊(沢村栄治記念館のページ)※小野欣助の項がある。
- ^ a b 「戦地に逝ったワセダのヒーロー―松井栄造の24年―」展によせてYOMIURI ONLINE、2011年3月9日記事。
- ^ 台湾・台中で戦死した事から陸軍の特攻隊に所属していたと考えられる。航空特攻作戦の概要/知覧特攻平和会館のページ[1]も参照。
- ^ 首位打者 - 東京六大学野球連盟
- ^ 戦没野球人モニュメント-モニュメントに刻まれた戦没野球人一覧(野球殿堂博物館のページ)[リンク切れ]