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小野鎮幸

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小野鎮幸
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文15年3月15日1546年4月15日[1]
死没 慶長14年6月23日1609年7月24日[2]
改名 乙寿丸[3]→次郎九郎→定幸→次郎三郎→孫十郎→鎮行→鎮幸→宗珊(法名)
別名 小野弾介→小野和泉守[4]
戒名 華徳院殿真月浄蓮大居士
墓所 熊本県熊本市西区花園本妙寺東光院
官位 和泉
主君 大友義鑑大友宗麟立花道雪宗茂加藤清正
肥後熊本藩
氏族 小野氏
父母 父:小野鑑幸[5]、母:大友氏
養父:小野信幸[6]
兄弟 鎮幸、三郎
戸次親延の娘(立花道雪の養女)[7]
質幸(ただゆき)、小野五郎、原尻鎮清室、安東連直室、小野鎮矩
養子:鎮矩森下釣雲の子、作兵衛)
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小野 鎮幸(おの しげゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将立花氏加藤氏の家臣。日本槍柱七本立花四天王の一人に数えられる。また和泉守であることから小野 和泉(おの いずみ)とも呼ばれる。旗印は日の丸[8]。家紋は杏葉紋(追い掛け二つ銀葉)、井裄菊御紋[9]

生涯

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豊後国戦国大名大友氏の家臣・小野鑑幸の子として誕生。

由布惟信に推挙されて大友氏の重臣・立花道雪に仕えた[10][11]。生涯で22度の大戦、多数の小戦に参加[注釈 1]して敵将を討ち取るや全身刀や槍、矢、鉄砲による67ヶ所の傷を受け、数々戦功を立て大友氏・立花両家から合計68枚の感状を受けた[1][76][77][78]

家中に由布惟信と共に、道雪から孫子兵法の「奇正相生」を引用しての奇と正の両翼として立花双翼と称揚され、鎮幸は奇の将を任じた[76][77][79]

天正12年(1584年)の沖田畷の戦い龍造寺隆信が討ち死にしたことにより、道雪は高橋紹運や朽網鑑康と共に筑後の支配を回復すべく戦い、道雪配下の備隊大将の1人として同僚の由布惟信らと共に数々の戦功を挙げる[80][81][82]

道雪の歿後、立花家の跡を継ぐ立花宗茂に仕え、天正14年(1586年)8月島津軍と抗戦し、立花山城籠城や高鳥居城攻めなどでも、両足が鉄砲に打たれて傷を負いながらも軍功を立てた[76][83][84][85]

天正15年(1587年筑後国柳川城の城主となった宗茂からは家中で最高の5千石の禄高を賜り、次席家老を務め、蒲池城主となった。 9月、肥後国人一揆討伐にも従軍。深謀遠慮の将とも言われ、作戦直前の道への用心深い偵察や山伏忍者の手配[86]、第三陣を率いて敵の襲撃を突破するなどでも殊功を立てた[87]

天正16年(1588年)5月27日、柳川城東南隅の黒門にて、隈部一族の武士名誉を保つように、立花家臣と隈部一族と同じ数の12人(一説は隈部方は精鋭20名)の討手と真剣勝負、放し討ちにした際に、殿として参加した[88][89][90][91][92]

文禄・慶長の役にも参加、武功を立て[93][94]豊臣秀吉から一騎当千・日本槍柱七本の筆頭として讃えられた[2][78][95][96]

江上・八院の戦い

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慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると石田三成の西軍への参加を主張し、大津城を攻略した。ところが、西軍が関ヶ原にて敗れると、加藤清正鍋島直茂黒田孝高(如水)が柳川を攻める形勢となった。同年10月14日、鍋島勢32,000[注釈 2]は二手に分かれて佐賀を進発すると、立花勢も迎撃のために八院方面へ出陣した。しかし、東軍の徳川家康への恭順を示すため主君・宗茂は城に残り、立花勢13,000のうち出陣したのは家老の鎮幸を総大将とする約3,000[注釈 3]であった。鍋島軍は、10月16日には筑後川を渡河して立花方の海津城を落城させ、続いて10月19日朝には先鋒隊3,000が立花成家勢200の鉄砲奇襲を受け20余人が討たれたが城島城を攻略、翌10月20日に鍋島軍の先鋒軍3~5,000と鎮幸率いる立花軍1,300と激突した(江上・八院の戦い)。

立花勢先鋒の安東範久(五郎右衛門)、石松政之(安兵衛)らは鎮幸の与力・松隈小源の軍令誤伝のせいで、軍法を破って独断で開戦し、次々と鍋島勢の軍陣の中へ突入した。先鋒第三隊の立花統次(三太夫、森下釣雲の三男、立花統春の養子)は鍋島軍の陣中深くまで進んで奮戦し、鍋島勢の先鋒・鍋島茂忠は本陣の五反田へ撤退したといわれている。

しかし、鍋島方は、立花勢を包み込んで包囲殲滅する作戦を当初から立てており、立花方は一騎駆けで敵軍に突撃した立花統次の戦死を始め、先鋒の安東範久、石松政之もたちまち反撃を受けた。救援出陣の第二陣立花鎮実(戸次右衛門大夫、藤北戸次氏の一族)と鎮実の若い次男立花親雄(善次郎、17歳)や新田鎮実(平右衛門、掃部助)は横合から果敢に攻めかけたが、これも後を断たれて共に戦死した。後陣の矢島重成(勘兵衛、剛庵、宗茂の側室・八千子の弟)と千手喜雲(六之允、筑紫広門の与力)は戦を躊躇し接戦していないため、馬廻衆の安東幸貞(津之助、安東範久の養子)、第三陣の若武者十時惟久(新五郎‧16歳)、先鋒の安東範久、石松政之も次々と戦死した。

総大将の小野鎮幸は本陣前の橋を堅守して鍋島勢の包囲を受け勇戦奮戦したが、鍋島軍の反撃を受け、供回りが14、5人になるまで討ち取られた。小野自身も銃創と矢傷を負い、討死寸前となったが[97]、水田方面の黒田如水軍を偵察していた立花成家(吉右衛門、薦野増時の嫡男)が別動隊300を率いて敢然と奇襲をかけ鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退した[98][99][100][101][102][103]

熊本藩士時代

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立花家が改易されて宗茂の身が加藤清正預かりになると、家臣達の多くは立花家臣団の勇猛を知る清正に召抱えられ、鎮幸はそのまとめ役として肥後国に残った。宗茂は僅かな家臣と共に各地を放浪する旅に出たが、鎮幸は少しずつ金を貯めて度々宗茂に送っている[104]

慶長14年(1609年6月23日、肥後にて死去。享年64。後に、立花宗茂が柳川城主に返り咲くと、鎮幸の子孫は呼び戻され代々大組組頭兼家老を世襲した。

家臣

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小野四天王[101]

  • 丹波左馬
  • 帆足日向
  • 中野大膳
  • 大庭太郎右衛門
  • 大原市内(鎮幸の影武者)

脚注

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注釈

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  1. ^ 永禄10年(1567年)7月7日宝満城・九嶺の戦い[12][13][14][15]
    9月3日~4日休松の戦い[16][17][18][19][20]
    永祿11年(1568年)7月4日立花鑑載討伐で敵首一つを取る[21][22][23]
    8月2日~5日第一次生松原の戦い[24][25]
    永祿12年(1569年)5月多々良浜の戦い (戦国時代)[16]
    天正6年(1578年)12月3日柴田川の戦い[26][27][28][29]
    12月13日宇美表の戦い[30]
    天正7年(1579年)3月16日~18日八嶽の戦い[31]
    7月12日~18日第二次生松原の戦い・第一次鳥飼の戦い[32][33]
    8月13日第三次生松原の戦い[34]
    9月11日池田城・第三次荒平城攻防戦[35][36][37][38]
    9月下旬第四次生松原の戦い・高祖山城攻防戦で原田林慶を討ち取る[39][40][41][42]
    天正8年(1580年)11月3日血風奈須美の陣[43][44]
    12月宗像合戦[45][46]
    天正9年(1581年)11月6日第三次嘉麻・穂波の戦い・潤野原合戦・第二次八木山石坂の戦い[47][48][49][50][51][52][53][54][55]
    11月12~13日清水原の戦いで石松兵部(貞増)を討ち取る[56][57][58][59][60][61][62][63][64][65][66][67][68]
    天正10年(1582年)3月16日許斐岳・吉原・八並・西郷表の戦いで大和貞秋を討ち取って、大和貞繁に重傷を負わせる[69][70][71][32]
    4月16日岩戸の戦い[72][73][74][75]
  2. ^ 『葉隠』聞書第六によると12,000、『太宰管内誌』は20,000余、『立斎旧聞記』は10,000余としている。
  3. ^ 一説2,000、うち鎮幸の直卒する中軍は1,000余騎

出典

[編集]
  1. ^ a b 『柳川史話』九八 小野和泉鎮幸 P.198。
  2. ^ a b 『柳川史話』九八 小野和泉鎮幸 P.200。
  3. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.14
  4. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・五四 戸次雪名字状 (小野文書中世54) P.93。
  5. ^ 小野長幸次男。次郎三郎幸俊、和泉守、弾正忠。
  6. ^ 小野安幸(小野長幸嫡男)の子。小野宮菊丸、大蔵丞、大蔵少輔。
  7. ^ 寶林院殿月桂清香大姉。旧柳河藩主立花家文書-内実系譜〕00001625
  8. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十二 江上合戦之事 P.612
  9. ^ 『柳川史話』第四卷 文献篇 二三二 維新前の菊桐の紋 P.466
  10. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・五三 戸次鑑連(道雪)書状 (小野文書中世53) P.92。
  11. ^ 『立花遺香』 P.122~123
  12. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61立花文書『戸次道雪譲状』358頁
  13. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.30~34
  14. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(七)筑前寶滿山 永禄十年七月七日 P.4
  15. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.22~23
  16. ^ a b 『柳川史話』九八 小野和泉鎮幸 P.198。
  17. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21小野文書 四五 大友宗麟安堵状 今度於休松父弾正忠(鑑幸)戦死、忠儀感悅候、仍被跡目之事可為連續之由、領掌不可有相違候、恐々謹言、十二月十七日、小野弾介殿 鎮幸 88頁
  18. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.35~38
  19. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.23~24
  20. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(九)筑前休松 永禄十年九月三日 P.5~7
  21. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・四四 大友宗麟感状 今度立花鑑載退治之刻、別而被碎手、分捕高名之由候、忠貞之次第感悅無比類候、弥可勵軍忠事、可為喜悅候、必追而可賀之趣、猶戸次伯耆守可申候、恐々謹言、七月廿三日 小野弾介殿 (小野文書中世44) P.88。
  22. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.42~44
  23. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一〇)筑前立花山 永禄十一年七月四日 P.7
  24. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.45~47
  25. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一一)筑前生の松原 永禄十一年八月二~五日 P.7~8
  26. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.94
  27. ^ 紹運の智略「柴田川の戦い」
  28. ^ 吉永正春『筑前戦国史』柴田川の戦い p.103~106
  29. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.45
  30. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・一六九 御感状控 (12) 戸次道雪感状写 天正六年十二月十三日、宇美表打廻砌、被官新五郎頭一ツ討捕候、感悅候、必追而一稜可賀之候、恐々謹言、十二月十三日 小野和泉守殿 P.135。
  31. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.85~86
  32. ^ a b 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.47
  33. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.86~87
  34. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・一六九 御感状控 (13) 戸次道雪感状写 前々十四日於生松原合戦之刻、別而被碎手、鑓疵・刀疵被数ヶ所候、高名無比類候、殊僕従帯刀・同六介分捕、同与四郎被鑓疵候、忠貞感悅無極候、必於配当砌者、最前顕其志可申候、仍可遂言上候条、御感文不可有余儀候、恐々謹言、八月廿六日 小野和泉守殿 P.135。
  35. ^ 吉永正春『筑前戦国史』荒平城主小田部氏の最期 p.120~127
  36. ^ 安楽平落城 筑前大友五城
  37. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.103~104
  38. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 大鶴小田部戦死之事 P.322
  39. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.89~92
  40. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一八)筑前高祖 天正九年 九月 P.11
  41. ^ 大友興廃記、戸次軍談の伝える「生の松原合戦」
  42. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 筑前国所々合戦之事 P.324~325
  43. ^ 吉永正春『筑前戦国史』血風奈須美の陣 p.137~138
  44. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 筑前国所々合戦之事 P.324
  45. ^ 「大友興廃記」巻第十七 宗像合戦之事
  46. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.121
  47. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・五九 戸次道雪・統虎連署感状 前之六日、穗波郡潤野原合戦之刻、最前依被碎手、郎従染甚五兵衛尉被疵之由候、感悅無極候、必以時分可賀之候、恐々謹言、十二月十一日 小野和泉守殿 (小野文書中世59) P.94。
  48. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.104~105
  49. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.126~128
  50. ^ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.88~89
  51. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(二〇)筑前潤野原 天正九年 十一月六日 P.12
  52. ^ 吉永正春『筑前戦国史』潤野原・石坂・八木山(穂波合戦) p.138~139
  53. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.58~59
  54. ^ 石坂の戦い 八木山峠(福岡県飯塚市)
  55. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十三 穂波合戦之事 P.353~354
  56. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・一六九 御感状控 (4) 戸次道雪・統虎連署感状写 前之十三、於清水原合戦之刻、別而被碎手、石松兵部(貞増)被討捕、高名感悅候、殊到官歴々、或分捕、或被疵、尽粉骨候条、是又銘々遣状候、為存知候、同僕従市丞・喜介・九郎兵衛・甚九郎、高名之段、令存知候、何樣配當砌最前賀之可申候、恐々謹言、十一月廿四日 小野和泉守殿 P.135。
  57. ^ 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』P.164~465
  58. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十三 小金原合戦之事 P.351~353
  59. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.117~122
  60. ^ 『筑前國續風土記』 卷之第二十六 古城古戦場 三 鞍手郡 小金原 P.6~18
  61. ^ 『立花遺香』 P.13~15
  62. ^ 『宗像郡誌. 中編 宗像記追考』本書第十六 小金原合戦之事 P.622~626
  63. ^ 小金原の戦い「立花道雪激怒」「宗像氏貞苦悩」
  64. ^ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.90~92
  65. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(二一)筑前清水原 天正九年 十一月十三日 P.12
  66. ^ 吉永正春『筑前戦国史』小金原の戦い p.155~163
  67. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.59~60、P.63
  68. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三四 大友義統軍忠一見状 天正九年十一月十三日、於山東宗像表合戦之砌、戸次伯耆入道道雪家中之衆、或分捕高名、或被疵戦死之着到、令披見訖、P.351~357。
  69. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.122~123
  70. ^ 吉永正春『筑前戦国史』吉原・八並の戦い p.163
  71. ^ 『宗像郡誌. 中編 宗像記追考』本書第十六 小金原合戦之事 P.628~629
  72. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.124
  73. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(二二)筑前岩門庄久邊野 天正十年 四月十六日 P.12
  74. ^ 吉永正春『筑前戦国史』岩戸合戦 p.165~167~
  75. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.64
  76. ^ a b c 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳川人物小伝(三)小野和泉 863・864頁
  77. ^ a b 『柳川藩叢書』第一集 (九五)略伝小伝(六)小野鎮幸小伝 237・238頁
  78. ^ a b 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』百八十 小野和泉の剛勇 P.322頁
  79. ^ 『由布安芸家系図』由布惟信戦功註伝
  80. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十六 立花高橋與波多筑紫挑戰之事 P.423~428
  81. ^ 久留米高良山合戦
  82. ^ 吉永正春『筑前戦国史』道雪、紹運、筑後出陣 p.198~200
  83. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十八 統虎屠高鳥居城討取星野兄弟拔岩屋城事 P.478~483
  84. ^ 『立花遺香』 P.103~106
  85. ^ 『橘山遺事』 P.182
  86. ^ 『立花遺香』 P.83~84
  87. ^ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』四十 統虎 有動氏を破る P.114~118
  88. ^ 中野等 『立花宗茂』P.55~56
  89. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21小野文書 八二 軍勢注文写 天正十五年五月廿七日肥後國住人隈部筑後守親永、柳川黒御門前にて御成敗之節出合申候御人数之覚 P.99~100頁
    御人数引廻 由布壱岐守惟次
    十時摂津守連貞、十時勘解由惟元、十時傳右衛門惟道、池邊龍右衛門永晟、池邊彦左衛門貞政、安東五郎右衛門範久、安東善右衛門常久、石松安兵衛政之、原尻宮内鎮清、新田掃部助鎮実、内田忠右衛門統続、森下内匠規寬
    十貳人外ニ掛通り 森又右衛門信清
    跡押 小野和泉守鎮幸
  90. ^ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』四十四 黒門の戦い P.126~128頁
  91. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(三四)筑後柳河黑門前 天正十六年五月廿七日 P.18頁
  92. ^ 『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.102~105頁。
  93. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・一七〇 御感状写 (3) 立花宗茂感状写 正月二十六日大明日本決勝負一戦之刻、遂粉骨無比類働、分捕高名感悅申候、必逐而可申述候、重畳油断有間敷候、恐々謹言、正月廿九日 小野和泉守殿 P.140。
  94. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・一七〇 御感状写 (4) 立花宗茂感状写 今度牧司追討之砌、分捕高名無比類、令感悅候、可被勵忠貞事肝要候、必逐而一段可賀申候、恐々謹言、五月五日 小野和泉守殿 P.140。
  95. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(二七)小野和泉守覚書 139~140頁
  96. ^ 『立花遺香』 P.37
  97. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・六八 立花尚政(宗茂)感状 今度江上表一戦之刻、依被励粉骨、二ヶ所被被疵候忠儀誠無比類候、殊其方与力・被官・中間数十人、或手負、或戦死之衆、着到銘々令披見、感入候、必取静至和泉守一稜可賀申候、恐々謹言、 十二月二日 小野和泉守殿 P.96。
  98. ^ 『日本戦史・関原役』(第七篇 本戦前後東西各地ノ諸戦 第十七章 柳河)
  99. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十二 江上合戦之事 P.595~614
  100. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十三 柳川久留米山下開城之事 P.615~620
  101. ^ a b 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21「小野文書」・一六六 「小野和泉・立花吉左衛門・十時源兵衛申分覺」(小野文書312)P.132~133。
  102. ^ 八院の戦い史跡
  103. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(三七)筑後江上八院 慶長五年十月廿日 P.22~25
  104. ^ 『立花遺香』 P.163~164

関連項目

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