小谷勉
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小谷 勉(こたに つとむ、1918年(大正7年)9月12日 - 1976年(昭和51年)8月1日)は、日本の医師、医学博士、教育者、大日本帝国陸軍軍医。
経歴
[編集]- 1918年 - 大阪府に生まれる。
- 1942年 - 大阪帝国大学医学部卒業。卒業後は陸軍歩兵第8連隊に入営。
- 1943年 - 陸軍軍医中尉としてシンガポールに赴任。終戦時、陸軍軍医大尉。
- 1947年 - 内地帰還。
- 1948年 - 大阪大学医学部整形外科学教室に入局。
- 1949年 - 大阪大学医学部助手となる。
- 1950年 - 大阪大学付属石橋分院外科勤務。
- 1951年 - 国立療養所大阪厚生園外科勤務。
- 1952年 - 大阪市立医科大学整形外科教室、水野祥太郎教授の下で講師を勤める[1]。
- 1954年 - アメリカ合衆国へ留学。
- 1961年 - 大阪市立大学教授に就任。
- 1965年 - 大阪市立身体障害者福祉センター館長に就任。
- 1971年 - 医学部長に就任。日本手の外科学会会長に就任。
- 1972年 - 大阪市立大学付属病院院長に就任。
- 1974年 - 退官。
- 1976年 - 麻痺性の腸閉塞のため大阪市立大学付属病院で死去。北浜カトリック教会で葬儀が行われた[2]。
人物像
[編集]- パウロ小谷という洗礼名の敬虔なキリスト教徒であった[3]。
- 趣味として絵画、スキー、野球を楽しんでいた。整形外科学教室では野球チームを設立して「デフォルマンス」と命名。セカンドを守り、トップバッターとして打席に立った[4]。
受章
[編集]脚注
[編集]関連項目
[編集]- 關淳一 - 死亡直前の主治医