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小田豊四郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小田 豊四郎(おだ とよしろう、1916年3月13日 - 2006年8月3日[1])は、日本実業家六花亭創業者。北海道函館市出身[1][2]

来歴

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旧制野付牛中学校(現・北海道北見北斗高等学校)卒業[1][2]。父の事業の失敗で進学を断念し、1933年に母方の叔父・岡部式二が経営する札幌千秋庵に入社[1][2]

1937年にもう一人の叔父・岡部勇吉が創業した帯広千秋庵(現在の六花亭の前身)の経営を引き継ぐ[1][3][4]。当初は同業他社が多かったことから苦戦を強いられる[5]。だが、1939年価格等統制令が敷かれ、他の店が砂糖不足で思うように商品を作れなくなった際、知人の会社社長の薦めもあり、前もって砂糖を大量に購入していたため、小田の店は従来どおりに製品を作ることができ、次第に客足が増えるようになった[6]

1952年帯広市の開基70周年記念式典の記念品として開発した最中菓子「ひとつ鍋」(命名は依田勉三の句の一節にちなむ)がヒット商品となり、以後も「男爵」「リッチランド」「十勝日誌」などの人気商品を生み出す[7][4]

1967年ヨーロッパを旅行した際、当地では小さな菓子店でもチョコレートが製造されていることを知り、帰国後自社オリジナルのチョコレート製品の開発に乗り出す。当時の日本ではチョコレート製造は、大手メーカーの独擅場であった[8]。従来のチョコレートとともに製造・販売を開始したホワイトチョコレートは、1970年代前半の北海道旅行ブームで注目され、爆発的な人気商品となった[8]

1977年の札幌出店を機に、千秋庵からの独立を決め、屋号を「六花亭製菓」と改め、初代社長に就任[1][4][9]1995年に社長の座を息子の小田豊に譲り、会長に退く[1]

文化振興にも力を入れ、「サイロの会」代表として1960年に月刊児童詩誌「サイロ」を創刊[1][10][11]1998年には「菓子づくりと地域文化への貢献」の功績により北海道新聞文化賞を受賞[12]。また、「食を通しての街づくり」「北海道の食文化の発展」を願い、寄与することを目的として2003年に特定非営利活動法人「小田豊四郎記念基金」を設立した[11][13]

2006年8月3日老衰のため死去[1]

出版

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関連書籍

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  • 『一生青春一生勉強』(編者:六花亭製菓株式会社)(1993年9月、六花亭製菓)- 六花亭の創業者、小田豊四郎の自伝
  • 『お菓子の詩 商業史発掘ノンフィクションシリーズ』(1995年10月12日、商業界)- 六花亭の創業者、小田豊四郎の半生を描いた本 ISBN 9784785501464
  • 『お菓子の街をつくった男 帯広・六花亭物語』(1999年4月1日、文溪堂)- 六花亭製菓会長・小田豊四郎の物語 ISBN 9784894232273

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 十勝毎日新聞』2006年8月7日
  2. ^ a b c 『続ほっかいどう百年物語』49頁。
  3. ^ 『続ほっかいどう百年物語』51 - 52頁。
  4. ^ a b c 中庭光彦「十勝を食糧王国に変えた開拓群像 : 北海道 十勝」『水の文化』第63号、ミツカン、2019年11月、32-35頁、2023年11月18日閲覧 
  5. ^ 『続ほっかいどう百年物語』52 - 53頁。
  6. ^ 『続ほっかいどう百年物語』54 - 55頁。
  7. ^ 『続ほっかいどう百年物語』55 - 56頁。
  8. ^ a b 『続ほっかいどう百年物語』56 - 57頁。
  9. ^ 『続ほっかいどう百年物語』57頁。
  10. ^ 児童詩誌「サイロ」”. 小田豊四郎記念基金. 2023年12月21日閲覧。
  11. ^ a b 樋口勝久. “六花亭のAnother Work”. 全国銘産菓子工業協同組合. 2023年11月12日閲覧。
  12. ^ 北海道新聞文化賞”. 北海道新聞社. 2023年12月21日閲覧。
  13. ^ 設立の想い - 小田豊四郎記念基金

参考文献

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  • 『続ほっかいどう百年物語』、中西出版

外部リンク

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