小河信章
小河傳右衛門信章(福岡市博物館蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 天文23年(1554年) |
死没 | 文禄2年6月21日(1593年7月19日) |
改名 | 孫次郎/源太郎(幼名)→信章 |
別名 | 義利、通称:伝右衛門 |
主君 | 小寺氏→黒田孝高 |
氏族 | 小河氏 |
父母 | 父:小河義直?(増益黒田家臣伝)、小河長貞?(姓氏家系大辞典) |
兄弟 | 良利、信章 |
妻 | 喜多村勝吉娘 |
子 | 小河之直室、宮崎重昌室 |
小河 信章(おごう のぶあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。黒田氏の家臣。黒田二十四騎の一人。
人物
[編集]小河氏の出自は摂津国の鷲尾氏の傍流とも、播磨三木郡淡河村の人ともいう。『増益黒田家臣伝』によると、父は小河義直、兄は播磨小寺氏に仕えた小河良利であるという。『黒田家譜』良利は小寺氏の重臣であり、信章もまた当初は小寺氏の家臣であった。
摂津八部郡で生まれる。黒田家に小姓として出仕し、元亀元年(1570年)に初陣。天正6年(1578年)に黒田孝高が有岡城に幽閉された際の誓紙にも署名している。しかしこの際、父と兄は小寺氏に与して羽柴秀吉と敵対している。その後、天正15年(1587年)九州平定における財部城攻略で大功を挙げた。同年、黒田氏が豊前国馬ヶ岳城に封じられると、豊臣政権の支配に抵抗する豊前城井氏が反抗するが、その際も母里友信と共に赤旗城攻撃に参加している。天正16年(1588年)には、中津の築城工事や特権放棄などの命令に従わずにいた大村城主・山田常陸介を中津城に呼び出して暗殺し、更に大村城・山田城・角田城を攻め落としている。その後、信章は馬ヶ岳城代として5,000石を与えられた。
文禄元年(1592年)文禄の役では、黒田家の家督を譲られていた孝高の子・長政に従って朝鮮半島へ渡海。文禄2年(1593年)1月の竜泉城の戦いでは城を死守したことから、小西行長から「日本一の勇士」と賞賛された。名護屋城にいた豊臣秀吉にもその一報が届き、秀吉は「豊前国妙見龍王の蔵入地から直々に1万石を与えるので早々に帰国するように」と信章に伝令する。それを聞いた信章は急いで日本へ向かうが、その途中の対馬国鰐浦にて病没した。享年40。
跡は娘婿の小河之直が継いだ。同族の小河正良(小河織部正良)は黒田長政が江戸城本丸、天守台を築く際、神奈川県真鶴町小松山に石切丁場を開き、小松石を中興、本小松石を採掘している。