小池勇助
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小池 勇助 | |
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生誕 |
1890年(明治23年)7月25日 日本、長野県 |
死没 |
1945年(昭和20年)6月26日 日本、沖縄県 |
所属組織 | 日本陸軍 |
小池 勇助(こいけ ゆうすけ、1890年(明治23年)7月25日 - 1945年(昭和20年)6月26日)は、日本の陸軍軍人、軍医。最終階級は中佐。
来歴・人物
[編集]長野県南佐久郡野沢村(現佐久市)に男5人、女1人の兄弟の次男として生まれる。野沢中学を経て、1914年金沢医学専門学校を卒業し、同年11月金沢歩兵第七連隊に入営、その後陸軍軍医学校で眼科を専攻。1925年(大正14年)予備役。帝国大学眼科教室で研究生活の後、千葉県銚子町(現銚子市)石津眼科病院勤務を経て、1928年(昭和3年)佐久鉄道(現JR小海線)中込駅前に小池眼科医院を開業。
1937年(昭和12年)日中戦争に軍医として出征、1941年(昭和16年)から満州、1944年(昭和19年)8月沖縄へ。1945年(昭和20年)3月小池が隊長を務める第二野戦病院に、那覇市にあった積徳高等女学校の生徒25名からなる「ふじ学徒隊」が配属される。6月26日ふじ学徒隊に解散命令を下したのち自決。
最後の訓示で「君たちは非戦闘員だ。死んではならぬ。つらくても生きのび、戦争の悲惨さを後世に伝えるのが君たちのつとめだ」とさとし生徒たちを脱出させた。ふじ学徒隊の戦死者は3名にとどまった。
辞世の詩
- 南の孤島の果てまで守りきて
- 御盾となりてゆく吾を
- 沖のかもめの翼にのせて
- 黒潮の彼方の吾妹に告げん
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 佐久市佐久の先人検討委員会編『佐久の先人』、佐久市、2014年。
- 佐久市志編纂委員会編『佐久市志 歴史編(四)近代』佐久市、1996年。