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小森雄介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小森 雄介(こもり ゆうすけ、1874年明治7年)12月11日[1])- 1942年昭和17年)5月3日[2])は、明治後期から昭和前期の銀行家、政治家衆議院議員

経歴

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鹿児島県鹿児島郡鹿児島城下高麗町(現鹿児島市高麗町[3])で、旧鹿児島藩士・小森新蔵の六男として生まれる[3]1896年(明治29年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業[4]。1899年(明治32年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した[2][3][5][6][7]

衆議院事務局に入り同属に任官[3][5]。1902年(明治35年)台湾銀行に転じて書記に就任[2][3][5]。植民経済研究のため1905年(明治38年)アメリカ合衆国に留学しハーバード大学で学んだ[2][3][5][6][7]。その後、ボストンのキタピポヂー銀行での実務研修、欧州各国の視察旅行を経て、1908年(明治41年)に帰国した[2][3][5][6][7]。同年、台湾銀行支配人代理に就任[2][5][6][7]。同年7月、第2次桂内閣が成立し後藤新平逓信大臣に就任すると、同年9月15日、その大臣秘書官となった[2][3][6][7][8]。1911年(明治44年)8月に桂内閣が退陣すると日本郵船嘱託に転じた[2][7]。その後、南満州鉄道の理事同格の高級社員に就任[2][5][6][7]。1914年(大正3年)7月、総裁野村龍太郎、副総裁伊藤大八が辞職すると共に小森も満鉄を退いた[5]

日豊本線の建設等にかかわったことが縁で[3]、1915年(大正4年)3月、第12回衆議院議員総選挙に宮崎県から立憲政友会所属で出馬して当選し[9]、衆議院議員に1期在任した[2][6][7]。政党問の煩しさに嫌気がさして衆議院議員を引退し[3]、以後フリーの政治家として活躍し[3]、同郷の後進の世話などを行った[3]。昭和17年5月3日没。墓所は青山霊園

親族

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脚注

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  1. ^ 衆議院『第三十六回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1915年、28頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』249-250頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 「山路澄子略伝:戦前・戦中篇」『研究所報』8、38頁。
  4. ^ 『第七高等学校造士館一覧 自昭和14年4月至昭和15年3月』119-125頁
  5. ^ a b c d e f g h 『現代日本の政治家』政友会165-166頁。
  6. ^ a b c d e f g 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』180頁。
  7. ^ a b c d e f g h 『宮崎県政外史』643頁。
  8. ^ 『官報』第7569号、明治41年9月16日。
  9. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』77頁。
  10. ^ 「山路澄子略伝:戦前・戦中篇」『研究所報』8、37-38頁。
  11. ^ 「山路澄子略伝:戦前・戦中篇」『研究所報』8、37頁。
  12. ^ 人事興信所編『人事興信録 8版』人事興信所、1928年、ア57-58頁。

参考文献

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  • 細井肇『現代日本の政治家』國光社、1916年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 宮崎県政外史編纂委員会編『宮崎県政外史』宮崎県政外史刊行会、1967年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 伊佐山潤子「山路澄子略伝:戦前・戦中篇」『研究所報』8、鹿児島女子短期大学附属南九州地域科学研究所、1992年。