小栗山館
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小栗山館 (青森県) | |
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城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 不明 |
築城年 | 鎌倉時代末期 |
主な改修者 | 不明 |
主な城主 | 倉光孫三郎・小栗山左京 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 郭・堀 |
指定文化財 | 史跡等未指定[1][2] |
埋蔵文化財 包蔵地番号 | 青森県No.202107(小栗山館遺跡)[3] |
位置 | 北緯40度33分48.6秒 東経140度28分58.8秒 / 北緯40.563500度 東経140.483000度座標: 北緯40度33分48.6秒 東経140度28分58.8秒 / 北緯40.563500度 東経140.483000度 |
地図 |
小栗山館(こぐりやまやかた)は、青森県弘前市小栗山にあった日本の城(館)。
概要
[編集]小栗山館は、小栗山部落の西約500メートルの地にある。北東に千年山の尾根、西は大和沢川に臨んだ断崖、東に数段の帯郭、南は昔湿地帯だったという天険の要害である。城は、南西から北東の狭長な地域で、150メートル×300メートルの範囲で比高は約80メートル。
歴史
[編集]小栗山館の築城年及び築城主は不明であるが、建武政権期のころ、倉光孫三郎という武将が拠っていたらしい。建武3年(延元元年、1336年)5月27日、岩館(岩楯)の曽我貞光は北朝について、南朝の倉光孫三郎が籠もる小栗山楯を攻撃したが撃退された。曽我氏にとって、岩木川左岸地区を手に入れるためには、絶対的に落城させなければいけない為、何度も攻め入られたが、撃退された。その後の小栗山館は、歴史の表舞台に出てこない。元亀・天正年間の館主に小栗山左京がいる。小栗山左京は野武士の首領で、津軽為信に従い、石川城攻撃では折笠与七ら83名と共に城門を破壊して、突撃するなど活躍している。その後、森岡信元の所領に小栗山が記載されているが、館自体については定かでない。