小林照朗
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小林 照朗(こばやし てるあき、1878年(明治11年)1月2日[1] - 没年不詳)は、日本の社会学者・教育者。
経歴
[編集]大阪府出身。1905年(明治38年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業[1]。佛教大学(現在の龍谷大学)教授を務めるかたわら[2]、京都帝国大学法科大学・文科大学大学院で学んだ[1]。1908年(明治41年)、東京女子高等師範学校教授に任命され、翌年から東京帝国大学文科大学講師を兼ねた[1]。1911年(明治44年)、教育学・社会学研究のためイギリス・フランス・ドイツに留学し、パリ大学・ベルリン大学で学んだ[1]。留学中にロンドンで開催された万国人権会議と、ハーグで開催された万国道徳会議に出席した[1]。1914年(大正3年)、帰国し、1917年(大正6年)に東京女子高等師範学校附属高等女学校となった[1]。その後福岡女子専門学校校長を務めた[3]。
著書
[編集]- 『日本之社会』(金港堂、1910年)
- 『欧米教育の印象』(育英書院、1916年)
- 『欧米の社会と日本の社会』(日本学術普及会、1916年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 原田登編『帝国大学出身録』帝国大学出身録編輯所、1922年。
公職 | ||
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先代 (新設) |
福岡県女子専門学校長 1925年 - 1926年 福岡県立女子専門学校長 1923年 - 1925年 |
次代 十倉精一 |
先代 槙山栄次 |
東京女子高等師範学校附属高等女学校主事 1917年 - 1920年 |
次代 藤井利誉 |