小松家 (侯爵家)
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小松家 | |
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家祖 |
小松輝久 (北白川宮能久親王第4王子) |
種別 | 華族(侯爵) |
著名な人物 | 小松揮世久 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
小松家(こまつけ)は、北白川宮能久親王第4王子で臣籍降下した小松輝久が旧小松宮家の祭祀を継承する家として創設した華族の侯爵家[1]。
歴史
[編集]北白川宮能久親王第4王子の輝久王(明治21年8月12日生、昭和45年11月5日没)は、小松宮彰仁親王の養子となっていたが、明治22年2月制定の皇室典範で皇族は養子相続ができなくなったため、彰仁親王は継嗣の依仁親王に東伏見宮家を創設させ、輝久王は臣籍降下させて小松姓を賜うことを請願した[1]。
その結果明治36年(1903年)1月に依仁親王は東伏見宮の称号を賜ったが、小松家創設の方は輝久王が未成年であること、また皇室典範が女子の降嫁以外に臣籍に下ることを認めていなかったことから見送りとなった[1]。この直後の彰仁親王の薨去により小松宮家は断絶した[1]。
明治40年(1907年)2月の皇室典範増補により男子皇族も請願により臣籍降下が認められるようになったことで輝久王は明治43年(1910年)に臣籍降下の請願を出し、小松姓と華族の侯爵位を賜り、旧小松宮家の祭祀を継ぐことになった[1]。
輝久は海軍中将まで昇進した海軍軍人であり、夫人は玉里島津家当主島津忠済公爵の次女薫子[1][2]。戦後は平安神宮宮司を務めていた[1]。その息子に彰久(大正8年9月29日生、平成2年6月29日没)があり、彰久の夫人は西竹一男爵の娘淑子[1]。
夫妻の息子に揮世久(昭和24年12月27日生)がある[1]。揮世久は平成29年(2017年)に鷹司家の鷹司尚武の跡を受けて伊勢神宮大宮司に就任した[3]。
系図
[編集]- 実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『平成新修旧華族家系大成 上巻』に準拠[4]。
小松宮彰仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
小松輝久[† 1] | |||||||||||||||||||||||||||||||||
彰久 | 豊久 | 舒子[† 2] | |||||||||||||||||||||||||||||||
揮世久 | 友子 | 佐智子 | 久美子 | ||||||||||||||||||||||||||||||
系譜注
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 609.
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 39.
- ^ “伊勢神宮大宮司に小松氏 祖父が元皇族”. 日本経済新聞. (2017年7月3日) 2023年9月10日閲覧。
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 427.
参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036702。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 森岡浩『日本名門・名家大辞典』東京堂出版、2012年(平成24年)。ISBN 978-4490108217。