小川千甕
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小川 千甕(おがわ せんよう、1882年10月3日 - 1971年2月8日)は、京都市出身の仏画師・洋画家・漫画家・日本画家。本名は小川多三郎。
人物
[編集]京都に生まれる。15歳で仏画師・北村敬重の徒弟となり日本画を学ぶ[1]。一方で20歳の時には洋画家の浅井忠に師事し、洋画を学ぶ[1]。24歳からは雑誌『ホトトギス』の挿絵なども手掛ける[1]。京都市立陶磁器試験場の技手として絵付けに従事する[1]。28歳で東京に移り、『ホトトギス』『太陽』などに挿絵や漫画を発表し、人気を得る。
1913年(大正2年)から1914年(大正3年)にはヨーロッパに遊学し、帰国後は仁科展に油彩画を発表する[1]。その後、日本画家の平福百穂の主催する日本画グループである珊瑚会に参加すると日本画へ移行し、1921年(大正10年)には院展に日本画を出展している[1]。自由な表現できる日本画である「南画」を追求。多くの作品を発表し、戦後にかけて文人への憧れから「詩書画」を多く手掛けるようになる[2]。
1916年(大正6年)には山梨県東八代郡境川村(現・山梨県笛吹市境川町小黒坂)出身の俳人・飯田蛇笏(いいだ だこつ)が排誌『雲母』を創刊する[3]。小川は『雲母』の表紙絵を手がけており、1915年(大正5年)3月には『ホトトギス』同人の高浜虚子らが「甲州吟行」を行うと、蛇笏ら山梨県の俳人が一行を案内しており、この甲州吟行には平福や小川も参加している[4]。小川は1928年(昭和3年)にも山梨県を旅行しており、甲府近郊の御岳昇仙峡を訪れ、甲府・長禅寺における句会にも参加し、その際の様子を《甲州紀行画巻》として描いている[5]。
画帖
[編集]歿後の展覧会
[編集]- 小川千甕展 縦横無尽に生きる―彼は仏画師・洋画家・漫画家・日本画家だった。(福島県立美術館:2014年10月11日〜11月24日[8]、泉屋博古館分館:2015年3月7日~5月10日)、京都府立京都文化博物館:2015年12月8日〜2016年1月31日[9])
- 小川千甕、再び―池上百竹亭コレクション(松本市美術館、2016年9月27日〜 2017年1月9日)[10]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 井澤(2003)、p.27
- ^ 井澤(2003)、pp.27 - 28
- ^ 井澤(2003)、p.34
- ^ 井澤(2003)、pp.34 - 35
- ^ 井澤(2003)、p.35
- ^ 『西遊画帖』上・下(1914年)国立美術館所蔵作品総合目録検索システム
- ^ 『東京写生画帖』其の一、其の二(1917年)国立美術館所蔵作品総合目録検索システム
- ^ 福島県立美術館>過去の企画展:2014年度
- ^ 京都府立京都文化博物館>特別展
- ^ 松本市美術館>展覧会情報>コレクション展
参考文献
[編集]- 井澤英理子「珊瑚会の活動に見る大正期日本画の一様相」『山梨県立美術館 研究紀要 第17号』山梨県立美術館、2003年
- 「小川千甕の画迹」刊行会編『小川千甕の画迹』(平成柳枝軒、2012年12月)
- 小川千甕展実行委員会編『縦横無尽 - 小川千甕という生き方』(求龍堂、2014年10月)ISBN 978-4-7630-1443-6 C0071