小嶋仁八郎
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 大分県津久見町[1](現・津久見市) |
生年月日 | 1921年7月7日 |
没年月日 | 1999年11月16日(78歳没) |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1950年 |
最終出場 | 一軍出場なし |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督歴 | |
この表について
|
小嶋 仁八郎(こじま にはちろう、1921年7月7日 - 1999年11月16日)は、大分県津久見町[1](現・津久見市)出身のプロ野球選手、高校野球指導者。2020年現在、九州(沖縄除く)で唯一、春夏の甲子園大会で優勝を経験している高校野球監督。
経歴
[編集]1921年7月7日、津久見町に生まれた。少年時代から野球センスが高く、1933年に開催された北海部郡少年野球大会ではエースとして、津久見小学校を優勝に導いた[1]。津久見小学校卒業後、臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)に入学してここでもエースとしてチームを引っ張ったが、甲子園の壁は厚く、遂に在学中に出場を果たす事は出来なかった(大分県予選に出場していたが、1936年夏は大分商業(現・大分県立大分商業高等学校)に1-19、1937年夏は大分工業(現・大分県立大分工業高等学校)に4-8といずれも1回戦で大敗している[1])。中学卒業後は、中央大学に進学し、エースとして1940年秋と1941年春の東都大学リーグの優勝投手となり、中大の連覇に貢献した。その後、社会人野球の八幡製鉄に所属(1946年,1947年,1949年と都市対抗野球大会に出場)する傍ら、軟式野球チームのオール津久見を結成(1946年~1952年まで活動)し、天皇杯全日本大会や国民体育大会軟式野球競技(福岡国体〈1948年・九州代表として〉,東京国体〈1949年・南九州代表として〉)にも出場した[2]。
1950年に西日本パイレーツへ入団。しかし、「俺の部屋を麻雀に使い過ぎる。」という理由で僅か2ヶ月で退団し、二度とプロ野球界に戻る事は無かった[2]。背番号の記録が不明な事から、練習生としての扱いだったと見られている。尚、後に同じ高校野球界の名監督となる野本喜一郎(元上尾高,浦和学院監督。また東洋大学硬式野球部の監督も歴任)はチームメイトだった。プロ退団後はしばらく、別府市役所に勤務した。
1951年、大分県立別府緑丘高等学校(現・大分県立芸術緑丘高等学校)の監督に就任し、高校野球指導者としてのキャリアをスタートさせた。翌1952年に地元・大分県立津久見高等学校の監督に就任。同校を九州唯一の選抜高等学校野球大会(1967年。初出場初優勝だった)と全国高等学校野球選手権大会(1972年)の両大会を制覇した学校に育て上げた他、教え子から数多くのプロ野球選手(後述)を輩出させ、名伯楽として謳われた。1982年に監督の座を大津裕也[注 1]に譲って、30年にも及んだ監督生活から勇退した[4]。その後、九州を中心に講演活動をこなし[4]、津久見市の非常勤教育委員の傍ら津久見高校グラウンド通いも欠かさなかった[5]。そして長年の実績が評価されて、1988年2月3日には1987年度朝日体育賞(現・朝日スポーツ賞)を受賞した[6][7]。
1999年11月16日に死去。78歳没。
長身で黒縁眼鏡をかけた姿がトレードマークであり、「津久見の兄ちゃん」[8]の愛称で知られた。また「高校野球は教育の一環であり、プロ野球でもなければ、その養成機関でもない。野球というスポーツを通して、いかに人間を教育するか。それが高校野球のテーマでなければいけない。」という考えを持っており[4]、リトルリーグで親自身の自己満足で少年を甘やかす風潮に苦言を呈していた[4]。箕島高校を強豪校に育てた尾藤公はこうした小嶋の姿勢を尊敬しており、「尊敬する津久見高の小嶋仁八郎監督の帽子を見たことがある。濃紺の帽子が塩を吹いて真っ白になっていた。どうしてですかと訊いたら『監督も子どもと一緒に汗をかくもんだ。それが大事なんだ』と教えてもらった」とのコメントを残している[9]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]- 一軍公式戦出場なし
背番号
[編集]- 不明 (1950年)
甲子園での監督成績
[編集]高校野球監督時代の教え子(プロ野球経験者のみ)
[編集]別府緑丘高時代
[編集]津久見高時代
[編集]- 田中喜八郎(西鉄)
- 中村武敏(中日)
- 近藤隆正(巨人)
- 高橋直樹(東映,日拓,日本ハム→広島→西武→巨人)
- 池田重喜(大洋→ロッテ)
- 中村国昭(ヤクルト→日本ハム)
- 岩崎忠義(東京,ロッテ→日本ハム)
- 吉良修一(阪神)…1967年春の優勝投手。
- 大田卓司(西鉄,太平洋,クラウンライター,西武)
- 浜浦徹(ロッテ→太平洋,クラウンライター,西武→ロッテ)
- 橘健治(近鉄)
- 岩井隆之(大洋,横浜大洋→日本ハム)
- 水江正臣(ヤクルト)…1972年夏の優勝投手。
- 中川信秀(太平洋)…1972年夏の優勝メンバー(一塁手)[注 2]。
- 谷崎浩二(近鉄)
- 日野善朗(横浜大洋)
- 川崎憲次郎(ヤクルト→中日)[注 3]
- 佐藤裕幸(広島→巨人→近鉄→広島)[注 3]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1977年夏の甲子園に主将(2番・二塁手)として出場。しかし、2年後の1984年6月18日に同校野球部を退部していた(また、退学して無職になっていた。主力選手だったが度重なる素行不良が原因だったと言われている)少年に日本刀で斬られて、両足に2か月の重傷を負い監督を辞任した[3]。その後、大分県立大分鶴崎高等学校の監督を経て、再び津久見高校の監督に復帰していた。
- ^ ほかの優勝メンバーに、プロ入りしていないが坂東一彦がいる。
- ^ a b 監督勇退後であるが、1987年頃まで母校のグラウンドに来て、指導していたと川崎が証言している(大津監督が先の傷害事件被害で辞任し、経験が浅い高橋祐二監督が指揮を執っていたため)。
出典
[編集]- ^ a b c d e 津久見野球の歴史(1・戦前)
- ^ a b c 津久見野球の歴史(2・戦後)
- ^ 昭和59年(1984年)の少年犯罪 - 少年犯罪データベース(1984年6月18日)
- ^ a b c d 『潮』1984年11月号。
- ^ 朝日新聞東京本社版1988年1月4日付朝刊14面
- ^ 朝日スポーツ賞全受賞者一覧※1987年(昭和62年)度の所に小嶋の名前がある。
- ^ 朝日新聞東京本社版1988年2月4日付朝刊21面
- ^ ホームラン12+1月号83P、日本スポーツ出版社、1996年
- ^ 尾藤元監督、汗まみれでつかんだ栄冠 Archived 2011年3月13日, at the Wayback Machine. サンケイスポーツ、2011年3月7日記事。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 津久見高野球部の足跡 - ウェイバックマシン(2003年3月6日アーカイブ分)