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小国城 (陸奥国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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小国城
青森県
別名 丹波館、朝日城、旭城
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 不明(小国氏?)
築城年 不明
主な改修者 不明
主な城主 小国氏、北山氏、天内氏
廃城年 不明
遺構 曲輪・土塁・堀
指定文化財 史跡等未指定[1][2]
埋蔵文化財
包蔵地番号
青森県No.210166[2]
位置 北緯40度32分13.9秒 東経140度41分20.3秒 / 北緯40.537194度 東経140.688972度 / 40.537194; 140.688972座標: 北緯40度32分13.9秒 東経140度41分20.3秒 / 北緯40.537194度 東経140.688972度 / 40.537194; 140.688972
地図
小国城の位置(青森県内)
小国城
小国城
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小国城(おぐにじょう)は、青森県平川市小国にあった日本の城山城)。

概要

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平川市東方の山間部小国集落にある。部落から南へ500メートル程いった山地に築かれた山城である。城域は、南北165メートル×東西20-25メートルほどを測る。3あるいは4つの曲輪で構成される。北端の主郭は、幅5メートル、深さ8メートルのに仕切られた1500平方メートル程の長方形である。

歴史

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鎌倉時代末期、小国弥三郎泰経が居城としていた。小国泰経は、南朝方の武将で持寄城で降将となった。小国部落の八幡宮縁起には、「正長7年」(1434年?[注釈 1])4月に、「小国丹波勧請」とあり、泰経と同一人物とも思われる。その後、小国氏は没落した。勧請時に鰐口1口が寄進されたが、1901年(明治34年)の火災で焼失した[3]

天文年間(1532年-1555年)には北山氏が館主で、南部桜庭の合戦に敗れた天内某が落ち延び、城から眺めた春の山桜が朝日に映える景色に感動し「旭城」と名付けたという伝説が残る。

慶長2年(1597年 )2月には、浅瀬石城傘下にあり、津軽為信は、ある山の頂上に登り、数人の家来に、法螺貝を吹かせた。その音に恐れをなした城主は、戦うことなく逐電した。そして、その山は貝吹森の名がついたという[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 正長年間は正長2年(1429年)までしかない

出典

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  1. ^ 「指定文化財一覧」平川市公式HP
  2. ^ a b 「青森県遺跡地図」青森県公式HP
  3. ^ 『広報ひらか』p.3(1970年6月15日発行)
  4. ^ 『広報ひらか』p.3(1976年6月10日発行)

参考文献

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関連項目

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