小国城 (陸奥国)
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小国城 (青森県) | |
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別名 | 丹波館、朝日城、旭城 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 不明(小国氏?) |
築城年 | 不明 |
主な改修者 | 不明 |
主な城主 | 小国氏、北山氏、天内氏 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 曲輪・土塁・堀 |
指定文化財 | 史跡等未指定[1][2] |
埋蔵文化財 包蔵地番号 | 青森県No.210166[2] |
位置 | 北緯40度32分13.9秒 東経140度41分20.3秒 / 北緯40.537194度 東経140.688972度座標: 北緯40度32分13.9秒 東経140度41分20.3秒 / 北緯40.537194度 東経140.688972度 |
地図 |
小国城(おぐにじょう)は、青森県平川市小国にあった日本の城(山城)。
概要
[編集]平川市東方の山間部小国集落にある。部落から南へ500メートル程いった山地に築かれた山城である。城域は、南北165メートル×東西20-25メートルほどを測る。3あるいは4つの曲輪で構成される。北端の主郭は、幅5メートル、深さ8メートルの堀に仕切られた1500平方メートル程の長方形である。
歴史
[編集]鎌倉時代末期、小国弥三郎泰経が居城としていた。小国泰経は、南朝方の武将で持寄城で降将となった。小国部落の八幡宮縁起には、「正長7年」(1434年?[注釈 1])4月に、「小国丹波勧請」とあり、泰経と同一人物とも思われる。その後、小国氏は没落した。勧請時に鰐口1口が寄進されたが、1901年(明治34年)の火災で焼失した[3]。
天文年間(1532年-1555年)には北山氏が館主で、南部桜庭の合戦に敗れた天内某が落ち延び、城から眺めた春の山桜が朝日に映える景色に感動し「旭城」と名付けたという伝説が残る。
慶長2年(1597年 )2月には、浅瀬石城傘下にあり、津軽為信は、ある山の頂上に登り、数人の家来に、法螺貝を吹かせた。その音に恐れをなした城主は、戦うことなく逐電した。そして、その山は貝吹森の名がついたという[4]。