小口太郎
小口 太郎(おぐち たろう、1897年(明治30年)8月30日 - 1924年(大正13年)5月16日)は、長野県岡谷市生まれの日本の科学者、歌人。第三高等学校、東京帝国大学理学部物理学科卒業後、同大学航空研究所入所。大学在学中に電信電話に関する発明をし、日本を始め諸外国に特許申請をし、許可を得ている。
科学者以外の彼を有名にしたのは、「琵琶湖周航の歌」の作詞者としてである。1917年、三高ボート部員として琵琶湖周航中、故郷諏訪湖に思いを馳せながら詩情豊かに作詞した「琵琶湖周航の歌」は、吉田千秋(新潟県出身、歴史地理学者吉田東伍の次男)の「ひつじぐさ」の原曲により現在まで広く歌われ続けている。この二人はお互いを知らず、それぞれ26歳と24歳で死去している。
来歴
[編集]諏訪中学校(現・諏訪清陵高校)を卒業後、1915年に高島尋常小学校で代用教員となった[1]。1年後の1916年(大正5年)に代用教員を退職し、第三高等学校大学予科第二部乙類[要出典]に入学した[1]。三高在学中の1917年(大正6年)6月に、水上部(ボート部)、第二クルーの琵琶湖周航の途中「琵琶湖周航の歌」を発表する[1]。
1919年(大正8年)に東京帝国大学理学部物理学科[要出典]に進学した[1]。
1921年(大正10年)、「有線及び無線多重電信電話法」の特許を出願する(イギリス、ドイツ、 フランス、オーストラリア、カナダにも出願)。
1922年(大正11年)に東京帝国大学卒業後、同大学航空研究所に入所した[1]。しかし、翌1923年(大正12年)に徴兵検査を受けて甲種合格となり、同研究所を退職する[1]。
1924年(大正13年)5月16日に、東京府豊多摩郡淀橋町(現・東京都新宿区)の山田病院で死去。
死後の顕彰
[編集]出身地の岡谷市には1988年に顕彰碑・歌碑と銅像が建立された[1]。歌碑に刻まれた歌詞は江崎玲於奈の揮毫による[2]。
このほか、「琵琶湖周航の歌」の歌碑が以下の各地に所在する。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 特集太郎さんの青春 (PDF) 『広報おかや』2018年10月号
- ^ “小口太郎生誕120周年 顕彰碑建立30周年記念の集い”. 信州・市民新聞グループ. (2018年10月8日) 2022年7月19日閲覧。
参考文献
[編集]- 岡谷市ホームページ[要文献特定詳細情報]
- 小口太郎顕彰碑、歌碑(長野県岡谷市、釜口水門脇)
- 小口太郎銅像(顕彰碑隣、作・田畑一作)
- 安田保雄(編)『小口太郎と「琵琶湖周航の歌」』学友社、1977年
- 小菅宏『琵琶湖周航の歌」誕生の謎―作者・吉田千秋の遺言』日本放送出版協会、2004年