小原伝
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小原 伝 | |
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生誕 |
1862年1月23日 日本 愛媛県 |
死没 | 1928年3月29日(66歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1882年 - 1918年 |
最終階級 | 中将 |
指揮 |
第5師団長 由良要塞司令官 対馬警備隊司令官 野戦砲兵第3連隊長 |
戦闘 | 日露戦争 |
小原 伝(おはら つとう、1862年1月23日(文久元年12月14日[1][注 1]) - 1928年(昭和3年)3月29日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]伊予国(現愛媛県)出身[1][3]。今治藩士小原吉継の五男として生れる[1]。陸軍幼年学校を経て、1880年(明治13年)1月、陸軍士官学校に入学[1]。1882年(明治15年)12月、砲兵少尉任官[1][3]。1884年(明治17年)7月、陸軍士官学校(旧5期)を卒業[1][2]。1889年(明治22年)12月、陸軍大学校(5期)を首席で卒業した[1][2][3]。近衛野砲兵連隊中隊長、陸軍砲工学校教官、参謀本部第1局員、ドイツ留学、第2軍参謀、参謀本部第1局員、オーストリア公使館付、ドイツ公使館付、陸大教官などを歴任した[1][3]。
日露戦争では第12師団参謀長として出征した[1][2][3]。野砲兵第3連隊長を経て、1908年(明治41年)12月、陸軍少将に進級した[1][3]。対馬警備隊司令官、砲工学校長などを歴任し、1914年(大正3年)5月、陸軍中将となり、由良要塞司令官、第5師団長を勤めた[1][2][3]。1917年(大正6年)8月、待命となり、1918年(大正7年)4月、予備役に編入された[1][2][3]。
栄典
[編集]- 位階
- 1886年(明治19年)11月27日 - 従七位[4]
- 1903年(明治36年)3月30日 - 従五位[5]
- 1908年(明治41年)5月11日 - 正五位[6]
- 1913年(大正2年)5月30日 - 従四位[7]
- 1915年(大正4年)7月20日 - 正四位[8]
- 勲章等
親族
[編集]- 前妻:小原親子(1871–1899) - 陸軍大将川上操六の一人娘、脳膜炎による憂鬱症で29歳で早逝[1][12]。
- 後妻:小原たま[13]
- 養子:小原仲 - 高松高等裁判所長官[1]
- 次兄:小原芳次郎(1852–1934) - 陸軍少将[1][14]
- 娘婿:砂田重政 - 政治家[1]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『日本陸軍将官辞典』198頁では文久2年。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本陸海軍総合事典』第2版、32頁。
- ^ a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』198頁。
- ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』64-65頁。
- ^ 『官報』第1034号「叙任」1886年12月9日。
- ^ 『官報』第5920号「叙任及辞令」1903年3月31日。
- ^ 『官報』第7460号「叙任及辞令」1908年5月12日。
- ^ 『官報』第250号「叙任及辞令」1913年5月31日。
- ^ 『官報』第891号「叙任及辞令」1915年7月21日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第700号「叙任及辞令」1914年12月1日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 大植四郎編『国民過去帳 明治之巻』尚古房、1935年、561頁。
- ^ 人事興信所『人事興信録』1903年、247頁。
- ^ 今治市『今治市誌』1943年、1005頁(明治以後の略年表)。
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。