寺田済一
寺田 済一(てらだ せいいち、1895年(明治28年)2月5日[1][2] - 1969年(昭和44年)3月8日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]東京府出身[1][2][3]。陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第59連隊付となる[1][4]。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業[1][2][3]。
1924年(大正13年)2月、飛行第2大隊付となり下志津陸軍飛行学校で偵察学生として学んだ[1]。1925年(大正14年)5月、歩兵大尉に昇進し、同年6月、兵科を航空兵に転科し航空兵大尉となる[1]。以後、参謀本部員(作戦班)、ポーランド駐在、陸大専攻学生、フィンランド公使館付武官、参謀本部員(作戦課)などを務め、1937年(昭和12年)8月、北支那方面軍参謀に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。1938年(昭和13年)3月、航空兵大佐に進んだ[1][3]。陸軍航空本部第1課長、飛行第65戦隊長、陸軍航空総監部教育部長兼航空本部第1部長を歴任し、1941年(昭和16年)8月、陸軍少将に昇進[1][2][3]。
1943年(昭和18年)5月、第3航空軍参謀長(南方軍)に発令され太平洋戦争に出征[1][2][3]。以後、航空本部総務部長、第4航空軍参謀長を務め、1944年(昭和19年)10月、陸軍中将に進んだ[1][2][3]。同年11月、第2飛行師団長に転じレイテ島の戦いに参戦した[1][2][3]。1945年(昭和20年)5月、航空本部付となり、同本部教育部長を経て、同年7月、航空本部総務部長兼航空総軍参謀副長に就任し終戦を迎えた[1][2][3]。同年12月、予備役に編入され、同年11月から1946年(昭和21年)3月まで航空本部残務整理部長官を務めた[1]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。その後、戦犯容疑で逮捕され、1948年(昭和23年)11月、禁錮10年の有罪判決を受けて服役し、1958年(昭和33年)5月に釈放された[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。