寝屋子制度
寝屋子制度(ねやこせいど)は、三重県鳥羽市の答志島答志町で古くからおこなわれている風習。一定年齢に達した男子を世話役の大人が預かって面倒を見る制度である。
制度の概要
[編集]中学校を卒業した男子は寝屋子という共同生活の場で生活を送る。以前は島の全員が寝屋子に入っていたが、近年では主に長男が寝屋子に入る。本来は寝泊りする場を寝屋、寝泊りする者を寝屋子と呼んでいたが、最近は両方をまとめて寝屋子という[1]。
日常生活全てを寝屋子で過ごすのではなく、夕食などを家庭で済ませた後に漁業を学んだり、村の祭り(神祭など)のときに大切な役目を任されたりするために、かつては毎日夕食後に集まっていたが、現在では(土曜日は漁業の休みとなる)金曜日の夜に集まるという[2]。
寝屋を提供する者は寝屋親と呼ばれ、独身者以外の実の親より若い人から選ばれる[3]。その条件は、第一に子供たちをまとめるリーダーシップのある人格者であり、第二には何人も一度に泊められるだけの大きい家を持つことが挙げられる(その家の娘の有無は関係がない)。正月とお盆の2回贈り物をする寝屋子のお返しとして、寝屋親が寝屋子にごちそうをふるまう。これを「寝屋子振舞い」という[4]。
寝屋子は、メンバーのだれかが結婚すると解散する[5]ため、答志島では10組程度の寝屋子が存在している。答志島では結婚のときにふたりが仲人を務めるが、そのうち1人は寝屋親が務める[6]。なお、寝屋子が解散しても、メンバー同士は朋友会または寝屋子兄弟という関係となり、その後も生涯にわたって強い絆で結ばれる[7]。
歴史
[編集]寝屋子制度の歴史をさかのぼると、15歳になった少年が「若い衆」と呼ばれる集団の一員となったのがこの制度の始まりと考えられるが[8]、九鬼水軍が船の漕ぎ手をすばやく集めるためいう説[9]や江戸時代発祥という説[10]もあり、はっきりとはしない。
現在では答志島だけに残るこの風習は、かつては伊勢志摩地方全域でみられた。
坂手島の宿屋(とまりや)制度は、大正末期に廃止されており[11]、また答志島の桃取町でも1960年頃に寝屋子制度は自然消滅[12]しているが、答志島は漁そのものや船掃除などの協力をしないと成立しない[13]漁師町であることが、今日まで存続している要因であるとされる[1]。
寝屋子制度は1985年2月19日に鳥羽市の無形民俗文化財に指定された[14]。
脚注
[編集]- ^ a b 『広報とば 1999年12月1日号』
- ^ 『広報とば 1999年12月1日号』より。ただし『「若者組」と授業実践』や『日本の姿 第6巻 寝屋子』では土日に寝屋に泊まるとされている。
- ^ 『風のかなたのひみつ島』より。
- ^ 『志摩国答志島の民俗』、16頁。
- ^ ただし『「若者組」と授業実践』の51頁に掲載されている聞き取り調査によると、寝屋に泊まる期間は27歳までであり、その時点でも結婚していなければ引き続き泊まり続けるとされている。
- ^ 『日本の姿 第6巻 寝屋子』より。
- ^ 『広報とば 1999年12月1日号』より。「寝屋子兄弟」という語句は『志摩国答志島の民俗』の16頁で確認できる。
- ^ 『広報とば 1999年12月1日号』
- ^ 答志島いろはより。
- ^ 「伊勢志摩 にっぽんに出会う旅」『日経woman別冊 Brava!』2号、102頁。
- ^ 『「若者組」と授業実践』、47頁。
- ^ 『「若者組」と授業実践』、50頁。
- ^ 例えば、「あぐり網」という漁の手法は、複数の漁船で行わないと成立しない。
- ^ 鳥羽市指定文化財一覧表を参照。
参考文献
[編集]- 鳥羽市総務課広報係編 「特集 寝屋子物語」『広報とば 1999年12月1日号』。
- 山岡健 『「若者組」の研究』 教育出版センター、1986年、95 - 97頁。
- 山岡健 『「若者組」と授業実践』 北樹出版、1999年、42 - 43頁・47 - 55頁。
- 羽生祥子 「伊勢志摩 にっぽんに出会う旅」『日経woman別冊 Brava!』2号、日経ホーム出版社、2004年、100 - 106頁。
- 椎名誠 『風のかなたのひみつ島』 新潮社、2002年、38 - 46頁。
- 『志摩国答志島の民俗』 皇学館大学郷土研究会、1972年、15 - 16頁。
- (VHS)民族文化映像研究所制作 『日本の姿 第6巻 寝屋子』 紀伊国屋書店、2003年出版(1994年制作)。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 【僕らの島生活】三重県答志島編(5)「寝屋子が支える地域コミュニティ」(2008年6月6日)(gooニュース)
- 寝屋子物語(鳥羽市総務課広報係、1999年12月1日)
- 答志島いろは(答志島旅館組合のサイト)
- 三重県答志島の青年宿・寝屋子制度と青年期発達に関する基礎的資料 澤田英三、安田女子大学紀要 42,91 - 99 2014.