宮後城
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宮後城 (愛知県) | |
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蜂須賀家政生誕地碑 | |
別名 | 蜂須賀屋敷、小六屋敷 |
城郭構造 | 平城 |
築城主 | 安井氏 |
築城年 | 応永年間(1394年 - 1428年) |
主な城主 | 安井重継 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | なし(道路拡張で撤去) |
指定文化財 | 史跡等未指定[1] |
再建造物 | 石碑 |
位置 | 北緯35度20分35.0秒 東経136度53分03.5秒 / 北緯35.343056度 東経136.884306度座標: 北緯35度20分35.0秒 東経136度53分03.5秒 / 北緯35.343056度 東経136.884306度 |
地図 |
宮後城(みやうしろじょう)は、尾張国丹羽郡宮後村(現在の愛知県江南市)にあった日本の城。「蜂須賀屋敷」「小六屋敷」などとも呼ばれる。
歴史
[編集]築城年は不明であるが、応永年間(1394年 - 1428年)より安井氏の居城で、天正の頃まで住んだ[2]。
周囲の土居や壕を巡らし、東西60間(108メートル)、南北80間(144メートル)[2]。
『前野文書(武功夜話)』によれば、戦国時代に、安井弥兵衛重幸の息子安井重継が居城していた。重継の姉安井氏が嫁いだ蜂須賀正利は、蜂須賀城が織田信秀との対立により奪われてしまったため、蜂須賀正勝らと共に宮後城を間借りして移り住んだ。正勝の長男・蜂須賀家政(後の阿波徳島藩祖)は、この地で生まれたとされ、「蜂須賀家政公誕生之地」の石碑がある[3]。
その後、天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉の砦として修築されたが、砦部分は和睦後に破却された。
江戸時代の寛永年間に家政の誕生地ということで本殿が再建され、参勤交代のときに徳島藩の者は宮後村に立ち寄ったという[2]。
昭和43年(1968年)、県道江南犬山線が屋敷を通ったため古井戸は埋められ[2]、遺構は残っていない。
脚注
[編集]- ^ 「文化財の紹介」江南市公式HP
- ^ a b c d 江南市史編纂委員会 1983, p. 77.
- ^ 江南市史編纂委員会 1983, pp. 77–78.
参考文献
[編集]- 平井聖ほか『日本城郭大系 第9巻』(新人物往来社刊、1979年)
- 江南市史編纂委員会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 江南市史 資料 4 (文化編)』江南市、1983年、77-78頁 。