宮崎正一
宮崎正一 みやざき しょういち | |
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生年月日 | 1907年10月15日 |
没年月日 | 1988年5月20日(80歳没) |
出身校 | 日本植民学校卒業 |
所属政党 | 無所属 |
称号 | 勲五等双光旭日章 |
初代 深川市長 | |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1963年6月17日 - 1967年6月16日 |
一已村長 | |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1955年4月30日 - 1963年4月30日 |
一已村議会副議長 | |
在任期間 | 1951年 - ? |
一已村議会議員 一已村会議員 | |
当選回数 | 2回 |
在任期間 |
1942年 - 1947年 1951年 - ? |
宮崎 正一(みやざき しょういち、1907年10月15日[1] - 1988年5月20日[1])は、日本の政治家。北海道深川市長(1期)。
来歴
[編集]1929年、日本植民学校卒[2]。1942年空知郡一已村会議員となる[2][3]。この時すでに深川地区の将来を担う役目を負わされた。1947年に村会議員を退任した[3]。戦後の1949年、同村農地委員になった[2]。1951年には再び村議会議員となり、一已村議会副議長と農業委員にも就任し、同村の発展に努めた[2][3][4]。1955年に一已村長選挙に立候補し、別の新人を破って初当選を果たした[5]。同年4月30日に就任した[6]。1959年の村長選挙では無投票で再選を果たした[5]。1963年4月30日に退任した[6]。
1963年深川市長選挙
[編集]同年、深川市が誕生。これによる市長選挙に立候補し、旧深川町長の真鍋政之や、元深川町長で元衆議院議員で自民党の香川兼吉、共産党の新人など3人を破って当選した[7]。
※当日有権者数:19,992人 最終投票率:92.42%(前回比:-pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
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宮崎正一 | 55 | 無所属 | 新 | 6,357票 | 34.9% | - |
真鍋政之 | 55 | 無所属 | 新 | 5,848票 | 32.1% | - |
香川兼吉 | 70 | 自由民主党 | 新 | 5,523票 | 30.3% | - |
升甚秀男 | 32 | 日本共産党 | 新 | 490票 | 2.7% | - |
6月17日に就任した[6]。就任直後に深川市は農業構造改善事業計画地域の指定を受け、農業の振興に努め[2]、10月には低開発地域工業開発地域の指定も受け、工業の振興にも貢献した[2]。ほかに小中学校の統廃合や校舎の新築、北海道拓殖短期大学の誘致を進め、開学にこぎつけるなど文教政策にも力を入れた[2]。
1967年深川市長選挙
[編集]1967年の市長選挙は香川以外同じ顔ぶれとなったが、現職有利の予想に反し、真鍋に敗れた[7][注釈 1]。
※当日有権者数:20,395人 最終投票率:93.59%(前回比:1.17pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
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真鍋政之 | 59 | 無所属 | 新 | 9,628票 | 50.9% | - |
宮崎正一 | 59 | 無所属 | 現 | 8,757票 | 46.3% | - |
升甚秀男 | 36 | 日本共産党 | 新 | 526票 | 2.8% | - |
6月16日に退任した[6]。1988年死去。
栄典
[編集]出典
[編集]注釈
[編集]- ^ 真鍋政之の年齢は55となっているが、1963年から変わっていないので誤記と思われる
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、1983年。
- 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年。