宮地伴七
宮地 伴七(みやじ ばんひち、1720年(享保5年)- 1813年11月11日(文化10年10月19日))は、土佐国土佐郡潮江村の庄屋[1]。長寿者。諱は「倫[2]」。自由民権家・宮地茂春の高祖父[3]、坂本龍馬の曾祖父の弟[4]、沢辺琢磨の高祖父の弟にあたる[3]。
来歴
[編集]享保5年(1720年)、土佐国土佐郡潮江村庄屋・宮地茂信(五助)の次男として生まれる[1][5]。母は宮地茂久(五助)の次女[6]。
次男であったが実兄・宮地信敬(伴蔵)が潮江村・白札郷士 第五代・山本重信(善右衛門)の娘と婚し、その婿養子となって山本家の六代目を継いだため。伴七が宮地家を継いだ[1]。
天明3年12月(1783年12月下旬 - 1784年1月上旬)、伴七の実兄である山本信敬(伴蔵)の次男・山本信貞(謙二)を、伴七の娘の婿養子として迎え、宮地家を継がせた[2]。山本謙二は名を改めて「宮地信貞(順右衛門)」と称した。宮地家は庄屋格であったが、兄・信敬が郷士格の山本家の婿養子となることで郷士格を得、その次男が宮地家に婿入りすることで、郷士格・宮地家となり、さらに信貞の代に大和流弓術の功績が認められて白札格(上士待遇)に昇格した。伴七の実子・宮地直次郎は、川田氏の養子となって「川田六蔵」と称し、以降川田氏となる。山本信敬(伴蔵)の長男は、山本信固(覚右衛門)で、山本信固の長男が山本信年、次男は坂本家の婿養子となり坂本直足と称した。坂本直足の次男が坂本龍馬である[7]。
土佐の『尚歯会(長寿会)』の始まりは、文化9年4月16日(1812年5月26日)のことで、高知城下・本通町の誉田多門(ほんだ・たもん)が、彼の伯父・松崎六之進と云う当時93歳になる老翁のために催したのが始まりである。その時、この会に参加した高齢者は20人で、63歳、64歳、70歳、74歳、77歳、78歳が各一人、80歳代が9人、90歳代が5人で、宮地伴七は松崎六之進と同じ93歳で最高齢者であった[8]。
文化10年10月19日(1813年11月11日)死去。享年94歳[1]。墓は高知県高知市南高見の横道の下端、松尾彦太郎墓地の南方畑の下の方にある[1]。五世孫の宮地茂秋も長寿者で92歳で逝去している[9]。
補註
[編集]- ^ a b c d e 『土佐の墓(2)』山本泰三著、土佐史談会、1987年(昭和62年)、151頁
- ^ a b 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵(高知県立図書館寄託文書)
- ^ a b “『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年8月30日閲覧。
- ^ 『土佐名家系譜』寺石正路編、高知教育会、1942年、576頁
- ^ 現住所・高知県高知市梅ノ辻21附近
- ^ 『土佐の宮地氏』87頁
- ^ 『坂本龍馬の系譜』土居晴夫著、新人物往来社、平成18年(2006年)
- ^ 『土佐の宮地氏』120頁
- ^ 青山霊園の宮地家墓の墓碑による。
参考文献
[編集]- 『土佐の宮地氏』宮地美彦編、昭和12年(1937年)
- 『坂本龍馬とその一族』土居晴夫著、新人物往来社、昭和60年(1985年)
- 『坂本龍馬の系譜』土居晴夫著、新人物往来社、平成18年(2006年)
- 『坂本龍馬全集』宮地佐一郎編、平尾道雄監修、光風社出版、1978年、改訂版1980年、再訂版1988年
- 『土佐国棟札集』
- 『土佐史談』第69号
- 『土佐の墓(2)』山本泰三著、土佐史談会、1987年(昭和62年)
- 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵(高知県立図書館寄託文書)
- 『板垣精神』一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 編纂、2019年、ISBN 978-4-86522-183-1
- 『土佐名家系譜』寺石正路編、高知教育会、1942年
参考史料
[編集]- 『宮地家資料』オーテピア高知(高知市民図書館) - 史料管理番号:LC200000038
- 『宮地美彦資料』オーテピア高知(高知市民図書館) - 史料管理番号:LC200000054