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宮井親造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

宮井 親造(みやい しんぞう、1892年7月[1] - 没年不詳)は、日本朝鮮検察官

経歴

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宮井紋太郎の長男として福岡県に生まれる[1]。1912年福岡県立中学修猷館[2]、1915年7月第五高等学校英語法律科[3]を経て、1918年7月東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業[4]

卒業後ただちに任官し、横浜、函館、札幌、京都、高知、舞鶴、豊岡の各裁判所の検事を歴任した後、1936年に朝鮮に渡り、京城覆審法院光州地方法院木浦支庁、大邱覆審法院の各検事を経て、大田地方法院検事正新義州地方法院検事正、光州地方法院検事正、咸興地方法院検事正を歴任する。咸興の検事正時代に終戦を迎え、ソビエト連邦抑留され、点々と各地を引き回された[5][1]

帰国後、2年ほど弁護士をした後、1949年に福岡高等検察庁の検事となり、1955年9月に停年退職し、再び弁護士を開業した[5]

脚注

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  1. ^ a b c 『人事興信録第14版』(人事興信所、1943年) ミ-77頁
  2. ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員10頁
  3. ^ 『第五高等学校一覧(自昭和11年至昭和12年)』(第五高等学校、1936年)260頁
  4. ^ 『東京帝国大学一覧(從大正7年至大正8年)』(東京帝国大学、1919年)學士及卒業生姓名83頁
  5. ^ a b 『ふるさと人物記』(夕刊フクニチ新聞社、1956年)241頁