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宜野湾御殿の墓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宜野湾御殿の墓

宜野湾御殿の墓(ぎのわんうどぅんのはか)は、沖縄県那覇市末吉公園内にある旧男爵家・宜野湾御殿(宜野湾家)の墓である。墓様式は沖縄地方特有の亀甲墓である。元は琉球王族具志頭御殿の墓として18世紀前半に建造された。那覇市の指定史跡

概要

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ヒンプン手前より前庭と墓室を望む。

宜野湾御殿は、第二尚氏王統第19代尚泰王の次男・尚寅、宜野湾王子朝広を元祖とする御殿(うどぅん、王家分家)である。廃藩置県後、尚寅は華族に列せられ男爵となった。尚寅は最初山川の墓に葬られたが、1911(明治44)年3月、現在の末吉の墓に移葬された。

宜野湾御殿の墓は、元は具志頭御殿の元祖・尚綱、小禄王子朝奇(第11代尚貞王三男)を葬るために造られた墓である。小禄朝奇は尚貞王代から尚益王代にかけて8年間、摂政を務めた人である。墓の正確な造墓年は不明であるが、1738(乾隆3)年に朝奇がこの墓に移葬されたと『王代記』に記されているので、造墓年も1738年と推定されている。以後、この墓は具志頭御殿の歴代墓として使用されてきたが、明治年間に宜野湾御殿に売却され、宜野湾御殿の墓となった。

墓本体は、幅(正面袖垣幅)12.2メートル、奥行き(前面階段前端より屋根囲い外縁まで)25.26メートルである。階段部を除く奥行きは、23.21メートルである。参道は、末吉街道の石畳道から途中途切れているが、約100メートルあり、幅約91センチメートルの石畳道である。参道の途中には墓守の番屋跡もある。墓守の番屋跡を含む墓域は、約4,000坪(約1万3,200平方メートル)ある。

墓庭を囲む袖垣の幅は約1メートルで琉球石灰岩による相方積みである。ヒンプン(屏風)は低めで、石積みはやはり相方積みである。墓室正面左右に展開する袖石は、伊江御殿墓より1段増えて、各3段からなる。石積みは布積みである。墓庭はヒンプンの横で階段(3段)を設け、前庭と外庭に分割されている。墓庭に入る門前にも階段(5段)が設けられており、墓室を高めに配置し、入口より墓室に至るまでに高低差を設けることにより、被葬者の身分(王族)の高さと御殿墓として格式の高さを、より直截に表現しようとしている。

ヒンプン横の通路は故意に狭められており、葬儀の際は棺を持ち上げて、ヒンプンの上を乗り越えなければいけないように設計されている。これは、あの世に行きにくいようにと、祈りの意味が込められているという。

墓室内部は天井がアーチ式になっており、壁は白漆喰で化粧されている。墓室内部の大きさは、幅1.82メートル、奥行き3.08メートル、天井高2.15メートルである。正面に厨子甕を安置する石段が3段あるが、左右に側棚はない。被葬者は尚寅、尚寅夫人、尚泰王姉国場翁主(真鍋樽金)、尚琳(尚寅長男)等である。墓室前の三味台(ウサンミデー)は、岩を刻んで形成したものである。

宜野湾御殿の墓は、伊江御殿墓より約50年後に建造された亀甲墓であるが、墓室正面屋根のマユ(眉)のそりは緩やかで、やはり初期の亀甲墓の特徴を残している。墓全体の姿は優美かつ荘厳で、沖縄の亀甲墓の発展史の中で一つの頂点に位置しているといえる。1981(昭和56)年、宜野湾御殿の墓及び墓域が那覇市の史跡に指定された。墓本体は沖縄戦で袖垣等に大きな被害を受けたが、1982(昭和57)年に修復された。

ギャラリー

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参考文献

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  • 宜野湾御殿の墓及び墓域修理委員会編『那覇市指定史跡 宜野湾御殿の墓及び墓域修理工事報告書』 尚義清発行 1983年3月

関連項目

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外部リンク

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座標: 北緯26度13分48.59秒 東経127度42分45.6秒 / 北緯26.2301639度 東経127.712667度 / 26.2301639; 127.712667