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宗野徳太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宗野徳太郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県
生年月日 (1933-01-17) 1933年1月17日(91歳)
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

宗野 徳太郎(そうの とくたろう、1933年1月17日 - )は、静岡県出身の社会人野球選手。内野手高校野球の指導者。

経歴

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清水中学から静岡城内高校に進学[1]。1年からレギュラーポジションをつかみ、1年夏を皮切りに、3度[2]甲子園に出場。立教大学時代、2学年下の長嶋茂雄をつきっきりで指導したと言われる。全藤倉でプレーしたのち、静岡市の菅野寛也医師[注釈 1]の医院の事務長。1978年、静岡高校創立100年の際には、学校から依頼され静高専任コーチとなり、野島譲監督を支えて甲子園出場を果たした。1981年から代行1年を含め、静岡高校野球部OB会長(第5代)を10年ほど務めた。

立教大学で長嶋茂雄を指導

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長嶋はかつてショートだったが大学時代から本格的にサードに転向し守備を徹底的に鍛えられた。宗野の教えによってミスターの代名詞である「指先を1塁方向へ残すスローイング」(送球の後に右手をヒラヒラと動かす所作)が誕生した。宗野はこの技術的な意味について「サードの場合、三遊間の深いところに打球が来ると体が開きやすく、一塁への悪送球につながりやすい。その開きを抑えるために、投げた後もう一度投げるような、リリースポイントを2つ作るイメージで投げてみるよう教えた。」と語っている。

脚注

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  1. ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 107頁。
  2. ^ 1949年夏,1951年春,1951年夏

注釈

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  1. ^ 宗野と同期の静中静高第68回の卒業生。1972年から静岡高校校医、1978年から20年ほど同窓会副会長。医院が静高から北東に4.5kmの位置にあり、野球部の選手が診察時間外にも訪れた。静高が甲子園に出場すると予め関西の静高OBの医者に連絡を付け選手の医療上の世話をお願いしていた(現在は高野連が地区毎に医師を指定)。静高野球部と深く関わり治療以外でも裏方としての協力を惜しまなかった。戦死者慰霊の活動でも知られる。

参考文献

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  • 『静岡高校野球部 誇り高き文武両道 Since1896』 ベースボールマガジン社 2015
  • 『月刊長嶋茂雄 vol.3 立教三羽ガラスの「絆」』 (分冊百科シリーズ) ムック 2013.8

関連項目

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外部リンク

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