宗晴康
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宗 晴康(そう はるやす、1475年(文明7年) - 1563年3月12日(永禄6年2月18日))は、対馬国の守護大名・戦国大名。宗氏の第16代当主。宗盛俊(もりとし)の子[1]。子に宗義調[1]。号は西殿。官名は讃岐守。
生涯
[編集]文明7年(1475年)、宗氏の一門・家臣である宗盛俊の子として誕生。
初めは僧であったが還俗し、天文8年(1539年)に、甥でもある宗氏15代当主・宗将盛が追放されると、家臣に推されてその嗣子という形で当主となる。還俗後は貞尚(さだなお)、貞泰(さだやす)と称し、天文11年(1542年)正月に室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を受けてからは晴茂(はるしげ)、晴康(はるやす)と名乗った[1]。
晴康の頃、対馬国内には宗氏の分家が38家もあり、所領が細分化されていた。晴康は宗氏の勢力を統一するために、天文15年(1546年)に本家以外が宗姓を名乗ることを禁じ、所領の統一化や宗氏の戦国大名化を図った。
天文22年(1552年)、家督を子の義親(のちの義調)に譲り、永禄6年(1563年)に89歳で死去した。