宗政潤一郎
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名前 | ||||||
愛称 | ムネ | |||||
カタカナ | ムネマサ ジュンイチロウ | |||||
ラテン文字 | MUNEMASA Junichiro | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1957年7月30日(67歳) | |||||
出身地 | 広島県広島市中区 | |||||
身長 | 180cm | |||||
体重 | 80kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW、MF、DF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1982-1999 2000-2015 |
マツダSC MUNE広島FC | |||||
監督歴 | ||||||
1990-1999 2000-2015 |
マツダSC MUNE広島FC代表 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
宗政 潤一郎(むねまさ じゅんいちろう、1957年7月30日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者(JFA公認S級コーチ)。広島県広島市中区出身。現在、日本サッカー協会参与、評議員、中国サッカー協会 (日本) 会長、広島県サッカー協会会長。サッカー解説者。テレビ番組「MIKASA サッカーナビ ミカサッカー ~ちゅピCOMひろしま~」レギュラーコメンテーター。 2024年10月6日、広島県サッカー協会100周年記念式典で、100周年を記念して設けられた「広島県サッカー殿堂」11名の中の1人として表彰され、広島サッカースタジアム(エディオンピースウイング広島)内にある広島サッカーミュージアムにレリーフが設置された。
来歴
[編集]1957年7月30日、弁護士・宗政美三(むねまさ よしぞう)<日本弁護士連合会副会長、広島弁護士会会長、広島市法律顧問等を務める>、宗政文子(むねまさ ふみこ)の長男として広島県広島市中区に生まれる。大学卒業後、周りから政治家への道を勧められたが実現しなかった。
競技歴
[編集]サッカーが盛んな広島に生まれ、広島大学附属東雲小学校の時にボールを蹴り始めた。広島大学附属東雲小学校・中学校では優秀選手にも選ばれる実力であったが、政治家になることを希望していた父親の反対により、一旦サッカーを断念する。その後約2年間のブランクを経て、名門・広島国泰寺高校2年生の6月に遅まきながら復帰した。 大学は、サッカー推薦入学の話が幾つもあったものの、敢えて一般入試を選択し、旧制高等学校を起源とする東京四大学(設立順に学習院大学、武蔵大学、成蹊大学、成城大学)の一校で、ゼミによる少人数教育をモットーとする武蔵大学(学校法人根津育英会武蔵学園)に入学した。歴史があり校風に魅力を感じたことと、将来の進路等を考慮したものだった。大学でも部活動は継続したが、当時日本にはプロサッカーがなかった為、サッカー選手は諦めようとしていた。しかし、入社した東洋工業(現マツダ)で熱心な勧誘を受け、紆余曲折あったが結局本気でサッカーに打ち込むことになった。1989年迄選手として全国レベルの大会にも数多く出場して活躍した。
指導歴
[編集]1990年、マツダSC東洋クラブ[当時日本サッカーリーグ・マツダサッカー部(サンフレッチェ広島の前身)下部組織の若手育成チームで、Jリーグ発足に向けて優秀な選手が沢山在籍していた]の監督に抜擢される。その後、Jリーグ・サンフレッチェ広島の発足に伴い、新生マツダサッカー部の監督に任命され、1999年に退く迄社会人サッカーの全国トップレベルのチームの指導者として活動した。その間、広島県国体代表チームの監督にも数度任命され、広島県のサッカーの向上に努めた。
2001年にマツダを退社し、2015年迄プロのコーチとして、MUNE広島FCの代表者の傍ら、広島県サッカー協会の各種委員、テレビ解説等、幅広く活動。毎年1~2回イタリア等のヨーロッパに直接出向き、最先端のサッカーを研究した。
2005年日本サッカー協会公認S級コーチ(Jリーグ及び日本代表の監督資格)に認定された。広島県では、初のサンフレッチェ広島関連以外のS級コーチとなる。
~主な戦績(中国大会以上)~
- マツダサッカー部:全国大会3位、西日本大会優勝、中国大会優勝、中国サッカーリーグ優勝(7回) 等
- 広島県国体代表チーム:全国大会入賞、中国大会優勝
- MUNE広島FC:中国大会(D2)優勝、フットサル中国大会優勝(全国大会出場)
サッカー関係の役職
[編集]1997年より広島県サッカー協会の各種委員を歴任。2016年に事務局長、2018年に専務理事、2020年に副会長兼専務理事、2024年には会長に就任した。 その他にも、日本サッカー協会参与、中国サッカー協会 (日本) 会長等、多くの要職を務める。
- 日本サッカー協会参与、評議員、マッチコミッショナー
〜天皇杯実施委員・競技会委員(シニア大会部会長)・理事・常務理事を歴任〜
- 中国サッカー協会会長
〜理事・専務理事を歴任〜
- 広島県サッカー協会会長
〜技術委員(第1種技術委員長)・広島県社会人サッカー連盟委員(技術委員長)・総務委員長・天皇杯/全広島実施委員長・事務局長・特任理事 ・専務理事・副会長兼専務理事を歴任 〜
資格
[編集]- 日本サッカー協会公認S級コーチ
出演
[編集]- テレビ/NHK「お好みワイドひろしま」Jリーグコーナー (2009年)、NHK・ちゅピCOM「天皇杯サッカー」(2019年~ )、NHK・ちゅピCOM「天皇杯サッカー広島県大会決勝」(2006年~ )、NHK「全国高校総体(インターハイ)サッカー広島県大会決勝」(2006年)、ちゅピCOM「MIKASAサッカーナビ ミカサッカー」(2021年~ ) 等多数
- ラジオ/FMちゅーピー「リュケイオン研究塾(リュケカフェ)」(2021年)、「ムネ ザ トークR](2024年) 等
その他
[編集]- 「広島県サッカー殿堂」表彰者
- イタリア[セリエA (サッカー) ]指導者研修修了者
- S級コーチ海外研修修了者/イタリア・インテルミラノ(セリエA)
- 広島県「ひろしままなびネット」登録指導者
- マツダスペシャリストバンク登録指導者
所属クラブ
[編集]人物
[編集]高校1年生の時、学校近くの本通り(広島の繁華街)を通学中に、俳優にならないかとスカウトされた。
無類の車好きで、大学卒業後Uターンして地元の自動車メーカー・東洋工業(現マツダ)に入社したのもその影響が大きい。入社から退社迄の20年間一貫して購買本部に所属し、自動車部品及び資材の調達(バイヤー業務)等を担当した。
趣味はイタリア車。2001年のマツダ退社後、サッカーの仕事で度々イタリアを訪問する内、イタリア車の魅力に取り憑かれる。一方で、芸能界の大御所・堺正章の影響を受けて(昔から様々な影響を受けて来た)、クラシックカーにも興味を持ち始める。堺正章とは師弟関係にあり、常時アドバイスを受けたり、何かにつけて行動を共にする間柄であるが、それにより益々クラシックカーに没頭していった。 2011年から2015年に掛けて、春(関西)・秋(関東)2回行われるラ フェスタ ミッレミリア(本場イタリアのクラシックカーイベント・ミッレミリアの日本版で、堺正章、近藤真彦、鈴木亜久里、横山剣、清水國明等が常連)への出場が認められ、毎回参戦した。 2012年12月、ヴェテランカークラブ東京(会長 堺正章)の会員に登録される。 2013年5月、堺正章の多大な尽力により、狭き門の本場イタリア・ミッレミリアへの出場を果たした。翌年の2014年にも連続出場している。 2024年3月、堺正章が代表を務める「Club Rotondo」主催によるクラシックカーイベント「SUPER MUSEUM」が開催され、世界に誇ることの出来る希少なクラシックカー20台だけが招待を受け、その内の1台として参加した。
食も趣味の一つ。世界の食文化に造詣が深く、2018年2月に、フランス・パリに本部があるラ・シェーヌ・デ・ロティスール協会の日本本部副会長を務める堺正章の推薦を受けて、当協会の会員に名を連ねた。 当協会は、素晴らしい料理とワインの真価を認める、世界中の料理人や美食家達からなる、伝統と格式を持った国際美食団体(騎士団)。会員になるためには、2名の会員の推薦を必要とし、指名を受けた後、フランス評議会において正式に就任を認められなければならない。協会員には、ロティ調理人の誓いを立てた上で、フランス本部よりその階位を表す記章が与えられる。 2023年2月、理事会の承認を受け、シュヴァリエ ダム デ ラ シェーヌからオフィシエに昇格した。