宋子
宋子(そうし、拼音: 、紀元前4世紀 - 紀元前3世紀ごろ)は、古代中国戦国時代の諸子百家の一人。宋国出身。稷下の学士の一人[1][2]。孟子と同時期に活動した[3]。
諸子百家の一人だが、どの家に属するのか判然とせず[4]、道家・名家・墨家・雑家・小説家などのいずれとも解釈される。人間の心や感情を論じ平和主義を説いた。尹文とともに学派を構成した(宋尹学派)。
宋銒(宋鈃、宋钘、そうけん[5]、そうけい)、宋牼(そうけい[6]、そうこう[6])、宋栄(宋榮、宋荣、そうえい)、宋栄子、子宋子とも呼ばれる[注釈 1]。
人物像
[編集]著作が一切残っておらず、断片的な学説や言行が、複数の文献を通じて伝わる。
『漢書』芸文志では、小説家の書として『宋子』十八篇の存在が記録されている。班固自注では「その言は黄老の意」とされる[4]。
『荘子』天下篇(学説誌的な篇)では、尹文とともに一個の学派(宋尹学派、宋尹派)を構成した人物とみなされ、「白心」を説いた学派として紹介される。『管子』には「白心」篇があり、両者の関係について諸説ある[注釈 2]。
『荘子』天下篇によれば、宋尹学派はみな、華山の形をかたどった上下水平な冠を身に着けていた、各地を遊説して上は君主・下は庶民にまで説いた、君主や庶民に拒絶されても気にせず説いた、清貧と献身を重んじて空腹になりながらも説いた、とされる[10]。
学説
[編集]学説として「見侮不辱」、すなわち「他者から侮蔑されても「辱」と思わない」、または「他者から侮蔑されても「辱」ではない」を説いた[注釈 3]。
ここでいう「辱」は、現代日本語では「恥辱」「屈辱」「汚辱」などと翻訳されるが、古典中国語の「辱」はより広範な意味をもつ。「辱」の対概念として「栄」があり、合わせて「栄辱」とも総称される。「栄」「辱」はしばしば諸子の論題になり、例えば『荀子』栄辱篇や正論篇、『説苑』の諸篇、『呂氏春秋』貴生篇の子華子の学説、『老子』の「知足不辱」、『管子』の「衣食足りて栄辱を知る」などで論じられていた[13]。
前提として、当時は他者から侮蔑されたら「辱」と思い、暴力によって報復するのが当然と考えられていた。ここでいう報復とは、個人においては私闘(決闘・喧嘩)、国家においては報復戦争にあたる。宋子は、そのような報復こそが戦乱の原因だと考えた。そこで、戦乱を断つためには、各人が「見侮不辱」を実践することが必要だと説いた。その上で、侵略戦争を放棄(「禁攻寝兵」)すれば、やがて戦乱は終わり平和が訪れると説いた[3]。
「見侮不辱」を実践するということは、言い換えれば、感情・怒りを抑制し、心を動揺させず、意欲・欲求をほぼ無にするということである。宋子においては、「寡欲」「情欲寡」「情欲寡浅」、すなわち「情欲を寡(すく)なくする」と表現される。別解として、「寡なくする」でなく「人の情として欲は本来寡ない」とする解釈もある[14]。
以上の学説は、宋子だけでなく、尹文にも帰される[4]。『尹文子』大道上篇、『公孫龍子』跡府篇、『呂氏春秋』正名篇、『孔叢子』公孫龍篇では、尹文によって似たような学説が論じられている。尹文の場合はさらに、「見侮不辱」を実践できている人を、各国の君主が「士」と呼んで賞讃し、積極的に登用するべきだという旨を説く。
『荘子』天下篇によれば、以上の学説に加えて「別宥」、すなわち「先入観の排除」という学説も説いたとされる[10]。この「別宥」は、『呂氏春秋』去宥篇の「別宥」、『呂氏春秋』去尤篇の「去尤」、『尸子』広沢篇の「別囿」、『荀子』解蔽篇の「解蔽」などと同じと推定される[10]。
評価
[編集]『荘子』天下篇は宋尹学派について、他の諸子百家と同様に、評価すべき点はあるけれども完全な思想ではないとしている。
『荀子』では、「見侮不辱」「情欲寡浅」を邪説の代表例として複数の篇で非難している。とくに正論篇では、荀子自身の「栄辱」観や「情欲」観をもって、詳細な論駁が展開される。
『孟子』では、それと対照的に、孟子と宋子との親睦が描かれている。両者の間には影響関係があったとされる[3]。
登場文献
[編集]- 『孟子』告子下 - 当時の二大国で敵対国の秦と楚へ遊説しにいく宋子、それを見送る孟子。『孟子』の主題である「利」が再論される。
- 『荀子』
- 『荘子』
- 逍遥遊
- 天下 - 尹文と同じ学派とみなされ、その学説が紹介・批評される。
- 『韓非子』顕学
- 『尹文子』大道下 - 田駢・彭蒙と会話する[15]。
- 『漢書』芸文志
脚注
[編集]注釈
- ^ 兪樾によれば「銒」と「牼」、「銒」と「栄」は音が近かった[7]。ゆえに同一人物を指すとされる。
- ^ 具体的には、『管子』心術上篇・心術下篇・白心篇・内業篇、以上四篇(管子四篇)と宋尹学派との関係について、郭沫若と劉節をはじめ多くの学者が考察している[8][9][4]。
- ^ 「不辱」は、「辱と思わない」と訳し得るが「辱ではない」のように訳すべきとされる[11][12]。
出典
- ^ 馮 1995, p. 221.
- ^ 《武英殿二十四史》本《漢書》藝文志 名家 (圖書館) - 中国哲学書電子化計画
- ^ a b c 大西 1982, p. 49.
- ^ a b c d 大西 1982, p. 50.
- ^ 中島隆博『悪の哲学 中国哲学の想像力』筑摩書房〈筑摩選書〉、2012年。ISBN 978-4480015433。173頁。
- ^ a b 『孟子 新釈漢文大系4』内野熊一郎、明治書院、1962年、418頁
- ^ 兪樾『春在堂全書』所収の『兪楼雑纂』「荘子人名考」。以下からの孫引き:《荘子今注今譯》陳鼓応、中華書局、1983年4月第1版、p.15
- ^ 南部 2015.
- ^ 金谷 1997, p. 403.
- ^ a b c 池田 2014.
- ^ 金谷 1997, p. 408-411.
- ^ 大西 1982, p. 51.
- ^ 「辱」の検索結果 / 「栄」かつ「辱」の検索結果 - 中国哲学書電子化計画
- ^ 金谷 1997, p. 411;415.
- ^ 湯城吉信「『尹文子』訳注」『弓削商船高等専門学校紀要(15)』1993年 。94頁
参考文献
[編集]- 郭沫若『十批判書』群益出版社、1945年
- 郭沫若 著、野原四郎・佐藤武敏・上原淳道 訳『中国古代の思想家たち 下』岩波書店、1957年。doi:10.11501/2970897。
- 馮友蘭 『中国哲学史』上下巻、商務印書館、1934年
- 馮友蘭 著、柿村峻・吾妻重二 訳『中国哲学史 成立篇』富山房、1995年。ISBN 457-2009023。
- 池田知久『荘子 下 全訳注』講談社〈講談社学術文庫〉、2014年。ISBN 978-4062922388。(天下篇 第三章「宋銒・尹文論 先入観の排除、闘争の否定、寡欲の提唱」)
- 大西晴隆「宋子の論理」『奈良大学紀要』第11号、奈良大学、1982年12月、49-56頁、CRID 1050863483155975168、ISSN 03892204。
- 金谷治「宋銒の思想について」『金谷治中国思想論集 中巻』平河出版社、1997年(原著1966年)、403-415頁。ISBN 978-4892032868。
- 南部英彦「『管子』四篇の政治思想について」『山口大学教育学部研究論叢(第1部)』2015年。CRID 1050845762389151104 。
外部リンク
[編集]- 曹峰 (2019年10月22日). “二十世纪关于杨朱的研究——以蒙文通、郭沫若、侯外庐、刘泽华等人为中心” (中国語). 中国人民大学. 2020年8月27日閲覧。
- ctext.org 人物検索「宋銒」 - 中国哲学書電子化計画