安里大親
表示
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2014年11月) |
安里 大親(あさと うふや、生没年未詳)は成化年間(1465年 - 1487年)の琉球王国の人。唐名は毛興文、名乗は清信。第二尚氏王統初代・尚円王の即位を推挙した人物。毛氏永村殿内の元祖。
出自
[編集]泊村(現在の那覇市泊)の住人。もとは大城掟(うふぐしくうっち)と言った。出自は伝承によれば、伊覇按司一世の次男山田按司(の二世)の三男であり、護佐丸の兄弟と伝わる。
なお護佐丸の娘は6代尚泰久王に嫁ぎ百度踏揚を産んでおり(尚徳王は尚泰久側室・宮里阿護母志良礼の子である[1])、百度踏揚は阿麻和利や越来賢雄に嫁いだ。また尚泰久や3代尚忠王・5代尚金福王は、護佐丸や安里の一族伊覇按司一世の長女・眞鍋金(マチルギ)と尚巴志との子である。このように護佐丸や安里は第一尚氏と関係の深い外戚であった。史実のとおり護佐丸、阿麻和利が次々と乱で滅び、尚徳王の死で第一尚氏は終える事となる。
第二尚氏の立役者
[編集]第一尚氏尚徳王亡きあと、王族の誰を後継者とするか重臣たちが集った。ここに居合わせた安里大親が突然に神がかりして「虎の子は虎、悪王の子や悪王、物呉ゆすど我御主、内間御鎖ど我御主」と謡い始めた。一同これに「ヲーサーレー」と唱和して、第一尚氏王族ではない、第二尚氏初代の内間金丸(後の尚円王)を擁立したとされる。金丸が御物城御鎖之側の職にあったとき、通勤のため安里の家の前を頻繁に往復しており、よく顔をあわせていたという。
尚円王即位後、安里村(現・那覇市安里)の地頭職に任じられた。『球陽』によれば、安里大親は崇元寺の建立(諸説ある)や浮縄御嶽の成立にもかかったという伝承がある。
脚注
[編集]- ^ 尚徳王が護佐丸の孫とするのは間違い
参考文献
[編集]- 沖縄大百科事典刊行事務局編『沖縄大百科事典』 沖縄タイムス社 1983年