嫡徳孫
嫡 徳孫 | |
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各種表記 | |
漢字: | 嫡 徳孫 |
発音: | {{{nihonngo-yomi}}} |
日本語読み: | ちゃく とくそん |
嫡 徳孫(ちゃく とくそん、生没年不詳)は、『日本書紀』に登場する百済使者。官位は「脩徳」[1]。『日本書紀』では、下部脩徳嫡徳孫と表記される(下部は百済五部制の一つ、「脩徳」は官位)。
概要
[編集]『日本書紀』安閑紀元年五月条によると、百済使者として上部都徳己州己婁と共に来日、朝貢し、上表する[1]。
「適」を冠する百済人に適莫爾解がいるが、「適」を大姓八族の一つである燕氏とみる説があり、嫡徳孫の「嫡」も「適」と音通の可能性がある[2]。韓国の『斗山世界大百科事典』は、燕氏の始祖及び淵源は不詳である、と説明している[3]。しかし、朝鮮古代史学者の鄭載潤は、燕氏は大姓八族の一つであるため、土着系(=「純百済人」)とみることもできるが、大姓八族は、百済の建国者である温祚王に付き従った八家であるのに、燕氏は漢城百済が崩壊し、熊津遷都以後に台頭した一族であるため、土着系とみるのは釈然とせず、「燕」という漢姓を使用した点、燕氏が軍事的に台頭した点、燕氏の拠点である錦江は、禰氏(禰嵩、礼塞敦、禰福、禰誉、禰善、禰軍、禰寔進、禰素士、禰仁秀)や陳氏(陳明、陳春、陳徳止、陳微之、陳法子)などの大規模中国人移民コミュニティ存在していた点などを鑑みると、燕氏は中国人移民の可能性がある、と指摘している[4]。朝鮮古代史学者の李弘稙や金栄官は、燕氏を錦江流域の土着系とみる見解もあるが、百済に移住した帯方郡に土着化していた中国人とみるのが妥当とする[5][6][7]。金栄官は、燕氏は熊津時代に活発に活動したが、泗沘遷都後の聖王十八年(540年)以後姿を消し、武王八年(607年)に燕文進が登場し、隋に使臣として赴くなど燕氏は活動を再開した[7]。百済は、対中国外交には中国系人士が有利であるため、中国系を起用しており(張威、張茂、高達、会邁、慕遺、楊茂、王茂、張塞、陳明、王辯那、王孝隣)、燕文進の出自が中国系であるため、隋の使臣に起用された、と指摘している[7]。
脚注
[編集]- ^ a b 日置英剛 編『新・国史大年表』国書刊行会〈第1巻〉、2007年3月1日、69頁。ISBN 4336048266。
- ^ 坂元義種「日本書紀朝鮮・中国関係記事注釈 : 巻第十四雄略天皇」『京都府立大学学術報告 人文・社会』第51巻、京都府立大学学術報告委員会、1999年12月、3頁、ISSN 1343-3946。
- ^ “연 燕”. 斗山世界大百科事典. オリジナルの2022年10月5日時点におけるアーカイブ。
- ^ 정재윤『중국계 백제관료에 대한 고찰』高麗大学歴史研究所〈史叢 77〉、2012年、17頁。doi:10.16957/sa..77.201209.1。
- ^ “수서(隋書) > 동이열전(東夷列傳) > 백제(百濟) > 大業 3년(A.D.607; 百濟 武王 8)에 璋이 使者 燕文進을”. 国史編纂委員会. オリジナルの2022年11月22日時点におけるアーカイブ。
- ^ 李弘稙『百濟人名考』新丘文化社〈韓國古代史의 硏究〉、1971年、358頁。
- ^ a b c 김영관『백제 말기 중앙 귀족의 변천과 왕권』한국고대사탐구학회〈陳法子墓誌銘을 통해 본 백제사의 새로운 이해〉、2014年12月24日、65頁。