姜昌瑢
姜 昌瑢[1](カン・チャンヨン、朝鮮語: 강창용、1914年3月2日 - 2000年9月25日)は、大韓民国の実業家、政治家。第2代韓国国会議員。本貫は晋州姜氏[2]。
姜 昌鎔[3]、姜 昌溶[4](それぞれ読み、ハングルともに同じ)とも表記される。
経歴
[編集]済州島北済州郡涯月面(現・済州市)出身。漢城商業学校卒業後は専売庁に就職した。咸鏡北道の出先支所に赴任したが、両親の懇願により2年ほどで済州島に帰郷した。1935年に涯月面書記に就任し、2年後に内地に留学に行った。1941年に法政大学政治経済科を卒業し、金融組合連合会理事見習試験に受験して合格した。慶尚北道・慶尚南道の金融組合で1950年ごろまでに朝鮮金融組合に10年勤務し、専務理事などを務めた[2][3]。
1948年の制憲総選挙には出馬しようとしたが、岳父の金道鉉も立候補する意向を示したため出馬しなかった。1950年の第2代総選挙に北済州乙区より無所属で立候補し、計10人の候補者の競いの中で4636票を得て当選し国会議員を務めた[5]。1952年に新たに成立した自由党に入党し、財経分科委員と交逓分科委員を務めた。財経委員在任中に財務部長官に懇願し、済州島は兵站戦略基地という点と多くの避難民による公共施設不足などを掲げ、済州道庁の新築資金を得て行政の面から済州道知事を支えた。政治活動のほか、1951年の秋夕の帰島する際に済州島の交通難に遭遇したため、1952年4月に運送会社の瀛洲運輸を設立し、死去までそれを商った。また、政治家を引退した後、農協中央会顧問と韓国証券取引所の初代理事を約4年間務めた[2]。持病により済州市の自宅にて87歳で死去した[6]。
家族
[編集]16歳の時に涯月面長の金道鉉の娘と結婚した。息子の姜英徹は済州市議会議員、同議長を務めた[2][7]。
参考文献
[編集]- 《大韓民国 議政総覧》 国会議員総覧発刊委員会 1994年
- 姜昌瑢 - 大韓民国憲政会
脚注
[編集]- ^ “대한민국헌정회”. rokps.or.kr. 2023年1月20日閲覧。
- ^ a b c d “(26)공산주의자로 민족 해방 운동에 기꺼이 몸을 던진 거목” (朝鮮語). 제주일보 (2018年1月29日). 2023年1月20日閲覧。
- ^ a b “民衆(민중)의참된代辯者(대변자)가되라”. NAVER Newslibrary. 동아일보 (1950年6月2日). 2023年1月20日閲覧。
- ^ “五(오)·廿總選擧立候補者群像(입총선거입후보자군상)”. NAVER Newslibrary. 경향신문 (1954年5月9日). 2023年1月20日閲覧。
- ^ “五(오)·卅選擧(삽선거)빛나는當選者(당선자)”. NAVER Newslibrary. 경향신문 (1950年6月2日). 2023年1月20日閲覧。
- ^ “부음 강창용옹 별세” (朝鮮語). www.donga.com (2000年9月27日). 2023年1月20日閲覧。
- ^ “제주"市의회 의장 직원에 취중폭언" 공무원노조 사과촉구” (朝鮮語). www.donga.com (2004年4月22日). 2023年1月20日閲覧。