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姜徳景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カン・ドクキュン

姜 徳景
강 덕경[1]
生誕 1929年[2]
大日本帝国の旗 大日本帝国日本統治時代の朝鮮慶尚南道晋州
死没 1997年2月2日(68歳没)[1]
死因 肺癌[2]
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姜徳景(カン・ドクキュン、朝鮮語: 강덕경)は慰安婦として名乗り出て証言を行った人。

経歴

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(本人の証言から[3]

  • 1929年:慶尚南道晋州 生まれ
  • 1943年(15歳、高等科1年):先生に言われ挺身勤労隊として日本へ、富山県不二越の工場で旋盤工として働く。給料預金しておくという事でくれなかった。
  • (3,4ヶ月後)食事が少なく空腹のため逃げ出すが戻る。更に2,3ヶ月後逃亡、道で腕章をして肩に星が3つある「小林」という憲兵につかまりトラックに乗せられ山の中で犯された。更にトラックで移動小さな部隊付属のテントで他の女と一緒に4ヶ月間毎晩強姦された。
  • (4ヶ月後)更に「小林」によりトラックで移動、畑が広がる場所の大きな部隊の20人くらいの女がいる慰安所で兵隊の相手をさせられた。また防空壕の中でも兵隊の相手をさせられた。地名を聞いたらマツヤマあるいはマツシロ(松代大本営と思われる)と聞いた。兵隊の「小林」は天皇陛下が避難に来る所と言っていた。
  • 1945年:ある日、泣いている声が聞こえ終戦だった。大阪へ更に伏木の朝鮮人部落へ移動。
  • 朝鮮人部落で働きそこの人と一緒に朝鮮へ帰った。
  • 1992年8月日本の長野県松代で講演
  • ナヌムの家に住む
  • 1997年2月:死亡

秦郁彦による言及

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  • 秦郁彦は、著書(『慰安婦と戦場の性』 新潮選書 1999)でこの時期に富山地区憲兵隊に勤務していた2人は、憲兵は単独行動はしない、サイドカーを使う、小林という憲兵はいなかった、不二越の周囲には遊廓があったと回想し、2人はそうした事はしていないと記している。従って「小林」は憲兵ではなく遊郭と関わりのある業者で軍服に似た国民服を着ていたのだろうとしており、姜徳景の証言の真偽については明確には述べていない。

ドキュメンタリー映画

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2015年7月に公開されたドキュメンタリー映画“記憶”と生きる』(土井敏邦監督)第二部で、姜徳景の最晩年の2年間が記録された。

参考文献

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  • 『“記憶”と生きる:元「慰安婦」姜徳景の生涯』大月書店、2015年。ISBN 978-4-272-52106-7

脚注

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  1. ^ a b 일제의 만행 화폭에 담아온 정신대 강덕경 화가 별세[김소영]” (朝鮮語). 文化放送 (韓国) (1997年2月3日). 2018年11月16日閲覧。
  2. ^ a b “記憶”と生きる”. 土井敏邦公式ウェブサイト. 2018年11月16日閲覧。
  3. ^ 『破られた沈黙 写真記録 アジアの「従軍慰安婦」たち』伊藤孝司編著 風媒社 1993
  4. ^ 「幻の『従軍慰安婦』を捏造した河野談話はこう直せ!」秦郁彦 『諸君!』2007.5、『慰安婦と戦場の性』秦郁彦 新潮選書 1999、「慰安婦『身の上話』を徹底検証する--焦点は韓国から中国・インドネシアへ!」 秦郁彦 『諸君!』28(12) 1996.12

関連項目

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