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姜在浩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
姜在浩
生誕 1905年
大韓帝国慶尚北道大邱
死没 不明
所属組織  満洲国軍
軍歴 1936-1945
最終階級 上尉
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姜 在浩(カン・ジェホ、강재호)は、満州国軍人創氏改名時の日本名本郷公康[1]

経歴

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1905年、慶尚北道大邱に生まれる[2]。1935年6月1日、中央陸軍訓練処第4期に入校[3]。中央陸軍訓練処を卒業し、1936年11月28日より同期の朴鳳祚や李元衡と共に琿春国境監視隊[注釈 1]に指揮官として配属[3]

1938年9月、琿春国境監視隊から派遣され、間島特設隊創設に携わった[5][6]。1939年10月、中尉となり牡丹江省管区司令部に勤務し、陸軍軍官学校第2期入学試験監督官として活動[5][6]。この頃、朴正熙が血書したという新聞記事を読んで、朴の軍官学校入学を後援した[7][注釈 2]。1940年8月10日、本郷公康に創氏改名[1]。1942年頃から1943年2月まで光明中学校配属将校[8]。後に上尉となり、間島特設隊第2連連長として活動[6]

第2次世界大戦終戦後に帰国したが、これといった活動はせず病死した[6]方圓哲によれば、疾病により軍に入らず、1960~1970年代に死亡したという[5]

2008年4月29日に民族問題研究所親日人名辞典編纂委員会が発表した親日人名辞典収録対象者軍部門に記載[9]。また、親日反民族行為者にも認定された[10]

勲章

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  • 勲五位景雲章[6]
  • 勲六位景雲章[6]

注釈

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  1. ^ 25名の朝鮮人で編成。1935年末から長嶺子国境線に配置され、1936年3月25日に起きた長嶺子事件に応援部隊として派遣された[4]
  2. ^ 朴正熙には年齢超過や妻帯者という制限があった[7]。また後援者は姜の他に推薦書を書いた関東軍の有川大佐がいた[7]

出典

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  1. ^ a b 飯倉 2021, p. 135.
  2. ^ 親日人名辞典編纂委員会 2009, p. 119.
  3. ^ a b 飯倉 2021, p. 143.
  4. ^ 飯倉 2021, p. 80.
  5. ^ a b c 飯倉 2021, p. 148.
  6. ^ a b c d e f 親日人名辞典編纂委員会 2009, p. 120.
  7. ^ a b c 飯倉 2021, p. 110.
  8. ^ 飯倉 2021, p. 107.
  9. ^ “[명단] 친일인명사전 수록 대상자 4776명” (朝鮮語). オーマイニュース. (2008年4月29日). http://www.ohmynews.com/NWS_Web/view/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000889220 2021年5月5日閲覧。 
  10. ^ 06년 12월6일 이완용 등 친일반민족행위자 106명 명단 확정 공개” (朝鮮語). 한국일보 (2021年12月6日). 2022年7月25日閲覧。

参考文献

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  • 친일인명사전편찬위원회 編 (2009). 친일인명사전 1. 친일문제연구총서 인명편. 민족문제연구소. ISBN 978-89-93741-03-2 
  • 飯倉江里衣『満州国軍朝鮮人の植民地解放前後史 日本植民地下の軍事経験と韓国軍への連続性』有志舎、2021年。ISBN 978-4-908672-47-7