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奥脇 太郎左衛門(おくわき たろうざえもん、? - 天和元年2月25日(1681年4月13日))は、江戸時代前期の一揆指導者[1]。
甲斐国都留郡新倉村の百姓[2]。谷村藩主秋元喬知の厳しい年貢の取立てに耐え兼ね、延宝9年(1681年)農民代表7名で江戸町奉行に直訴[1]。
訴えは認められず、磔となった秋山村関戸左近に続き他の5人と共に死罪に処された[2]。昭和9年(1934年)、山梨県富士吉田市の大正寺に記念碑が建立されている[2]。