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奥田雀草

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
奥田 雀草
誕生 奥田 哲良
(1899-07-29) 1899年7月29日
兵庫県淡路市
死没 (1988-12-13) 1988年12月13日(89歳没)
京都府京都市
職業 俳人・俳画家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
親族 奥田亡羊(孫)
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奥田 雀草(おくだ じゃくそう、1899年7月29日 - 1988年12月13日)は、日本の俳人俳画家。本名は奥田 哲良(おくだ てつろう)。

来歴・人物

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  • 1899年(明治32年)、 兵庫県津名郡遠田村(現、淡路市遠田)に、花道家・奥田瀧衛[1](1848-1899)とその(1864-1940)の長男[2]として生まれた[3]。尋常小学校[4]卒業後、神戸法学院に入学するが、結核のため進学を断念。療養後、淡路島で小学校の代用教員をつとめていた十代の終わりごろ俳句と出会った[5]
  • はじめ俳句を長谷川零余子長谷川かな女に師事し、1918年(大正7年)、俳誌「ホトトギス」より「枯野」の創刊に参画[6]1923年(大正12年)、俳誌「紙子」(のちに「青螺」[7]と改題)を創刊・主宰。1932年(昭和7年)、満33歳で神戸に須磨俳句学校を設立[8]、結社時代の句をまとめた第一句集『自像』[9]を上梓。翌1933年(昭和8年)、初の俳画展を神戸で開催した[10]
  • 1934年(昭和9年)、すべての俳句結社を離れて京都に居を移し、独自に俳句と絵の研鑽を積む。嵯峨大覚寺で書画を教えつつ、句集『望郷』[11]『濤に佇つ』[12]『嵯峨野』[13]を出版。加えて雑誌「精華」[14]、「宗教と美術」[15]、「詩と美術」[16]を発行。吉井勇秋田雨雀直原玉青[17]池田遙邨[18]山田喆山鹿清華谷内清巌[19]田畑忍末川博ら芸術家や文化人と親交を深めた。
  • 戦後は1949年(昭和24年)、満50歳で雀草終生の仕事となる口語自由律の俳誌「高原」[20]を創刊・主宰。有季定型にとらわれない、ヒューマニズムを基調とした[21]平明温雅な句境を開いた。また1948年(昭和23年)に関西俳画院を設立。武者小路実篤との二人展[22]が開催されるなど、俳画家としても広く人々に親しまれた[23]
  • 1965年(昭和40年)、京都府知事だった蜷川虎三とともに京都で原爆忌全国俳句大会[24]を開催。17年にわたり大会実行委員長をつとめた。1981年(昭和56年)、原爆忌全国俳句大会の準備中に脳溢血で倒れ、1988年(昭和63年)、京都市右京区御室の自宅にて死去[25]。享年八十九。戦後は句集をまとめず、没後、遺句集『一本しかない道』[26]が出版された。

作品

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  • 生きていたのか/賀状 うらがえして見る
  • 人ら生きぬく/山河 二柱から芽吹き
  • わがあるくところ/恵方ときめて あるく
  • 雲を見ている/雲から雲がうごき
  • もいでも もいでも 蜜柑/君の山のみかん
  • うらら 旅をゆく/白波をみていく
  • とし問うてくれるな/国敗れた日を誕生日とする
  • この涼風のなかから/誰をよぼうや
  • ふるさと はながさく/ちちである ははである
  • 青空いっぱいを/こころの窓とする (『一本しかない道』より)
奥田雀草俳画作品

著書

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句碑

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  • 滋賀県栗東市・円超寺「田植笠揃へば近江富士へ向く」(1944年建立)
  • 兵庫県養父市・長福寺「大慈悲に抱かれて旅の花衣」(1950年建立)
  • 兵庫県淡路市・常隆寺「平和の鐘の音 かねついて山一めぐりする」(1954年建立)
  • 兵庫県淡路市・東山寺「みほとけの夢が木の実の朝となる」(1958年建立)
奥田雀草句碑(東山寺)
  • 兵庫県淡路市・伊弉諾神宮「人ら生きぬく 山河二柱から芽ぶき」(1959年建立)
奥田雀草句碑(伊弉諾神宮)
  • 兵庫県洲本市・蓮花寺「ふるさと はながさく ちちである ははである」(1960年建立)
  • 兵庫県洲本市“文学の森” 「青い山を背に 海のどっかで 母の声がする」(1970年建立)
  • 淡路市旧尾崎(遠田)小学校“開校百年之碑” 「もゝとせを花咲きつゞき今日も咲く」(1973年建立)
奥田雀草句碑(旧尾崎小学校)
  • 兵庫県香美町・藤原氏庭園「石黙し添水の音が月で鳴る」(1975年建立)
  • 兵庫県香美町・帰仰寺「みほとけの夢が木の実の朝となる」(1975年建立)
  • 京都市右京区・遍照寺 (京都市)「大慈悲に抱かれて旅の花衣」(1991年建立)
奥田雀草句碑(遍照寺)
奥田雀草句碑(淡路文化史料館)

雀草の句碑は上の12基。この他、洲本市“文学の森” に蜷川虎三、夫人・奥田雅子の句にそれぞれ雀草が絵をつけた合同句碑2基がある。

脚注

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  1. ^ 瀧衛は嵯峨大覚寺に生花を学び、淡路島に帰って各地に生花会を起こした。雀草の生後120日目に他界した。(句集『自像』自序)
  2. ^ 瀧衛とそのには雀草が生まれる前にもらった養子があったが、その兄は雀草が小学校にあがった頃、結核で亡くなっている。(句集『自像』自序)
  3. ^ 兵庫県立淡路文化会館・洲本市立淡路文化史料館・一宮町公民館主催「ヒューマニズムの俳人奥田雀草展」(1990年)パンフレット「奥田雀草年譜」
  4. ^ 尾崎村立遠田尋常小学校。(「ヒューマニズムの俳人奥田雀草展」年譜)
  5. ^ 雀草と俳句の最初の出会いは幼少期にさかのぼる。父、瀧衛の句を母からよく聞かされていたという。「幼い私の頭に印象づけられてゐるのは私の母が常に俳句をそら覚えに覚えてゐた、その俳句は主に亡くなつた父の遺作であつた。私の家の小窓はいつも字の書いた紙が貼られてゐた。今思ひ出すと貧しかつた関係だつたかも知れない、それは俳句の巻をほぐして貼つたもので、その中の俳句を母がよく読んできかせて呉れた。」(句集『自像』自序)
  6. ^ 「枯野」創刊年は「ヒューマニズムの俳人奥田雀草展」年譜による。
  7. ^ 「青螺」改題は1929年8月。1932年3月号で廃刊されるまで続いた。(「ヒューマニズムの俳人奥田雀草展」年譜)
  8. ^ 須磨俳句学校は経営難でほどなく閉鎖されたという。その経緯や神戸時代のことは句集『望郷』の後記に記されている。
  9. ^ 第一句集。1932年(昭和7年)青螺社刊。長谷川零余子・かな女に師事した淡路島時代の1262句(有季定型)を収める。雀草の生い立ちは同句集「自序」に詳しい。
  10. ^ 「ヒューマニズムの俳人奥田雀草展」年譜
  11. ^ 第二句集。1935年(昭和10年)宝文館刊。神戸に移り住んだ1932年(昭和7年)から京都転居までの3年間、神戸時代の578句(有季定型)を収録。1934年(昭和9年)の室戸台風の被害を詠んだ33句の一連がある。また数は少ないが「わらべらに焼芋の灰をふくよふくよ」「桜餅三越に来て大丸に来て」「三十五経し盆の佛なり吾が父なり」など後の自由律の萌芽と見られる句がある。
  12. ^ 第三句集。1937年(昭和12年)青螺社刊。小寺歡二の編集で出版された。同氏の跋文に「人間雀草を知るに良きよすがである抒情俳句を選び父母編、恋愛編とした」とある。雀草の「抒情俳句」184句(有季定型)が収録されている。
  13. ^ 第四句集。1942年(昭和17年)七丈書院刊。京都移住後、雑誌「精華」および「詩と美術」に発表した作品から500句(有季定型)が収録されている。小寺歡二応召の句、母への追悼句などがある。
  14. ^ 旧嵯峨御所華道雑誌。1935〜1943刊。奥田雀草編集主筆。
  15. ^ 1939年刊。奥田雀草主宰(京都文化時報社発行)
  16. ^ 1940刊。奥田雀草発行主筆。(東京)
  17. ^ 直原玉青(放青)との交流は俳誌「紙子」が発行されていた1923年(大正12年)〜29年(昭和4年)頃に始まった。「雑誌紙子を主宰し、直原放青、堤寒三、島田滴州、畑耕一、佐藤惣之助、太田三郎、百田宗治中西悟堂、田正夫、阿部みどり女、加藤雪暢の諸氏を知る」(句集『自像』紙子抄扉文)。なお玉青には草庵に遊ぶ雀草を描いた絵がある。
  18. ^ 池田遙邨との交流は俳誌「青螺」が発行されていた1929年(昭和4年)〜32年(昭和7年)頃に始まった。「青螺を主宰し今日に及ぶ(略)藤岡玉骨夫妻、直原放青、増田千代松、山道超人、別所正恭氏の後援を得ると共に不動立山、池田遙邨、山口八九子、人見少華其他の諸画伯及び詩人西谷勢之介氏を知る」(句集『自像』青螺抄扉文)
  19. ^ 谷内清巌和尚は雀草と同じ淡路島の出身。京都での親代わりを果たした。雀草が京都移住後、大覚寺で書画を教えたのも、同寺の宗務総長を務めた清巌和尚の紹介によるものと考えられる。
  20. ^ 口語自由律の俳誌。雀草の中心的な俳句活動の場となった。池田遙邨、直原玉青、蜷川虎三らが参加・投句した。雀草没後は夫人の奥田雅子が主宰となり、2005年まで発行された。バックナンバーは立命館大学国際平和ミュージアムなどに保管されている。
  21. ^ 「俳句の中を一貫して流れるものは、ヒューマニズムであり、俳句作者は、ヒューマニストでなければならないと信じている。なぜならば、私たちは人間であるからであり、人間である私たちのうつたえであり叫びであるのが俳句であるからである。(略)高原の旗はそのために翻るものである。」ー「俳句の中を貫くもの」奥田雀草(「高原」昭和28年2月号)
  22. ^ 1959年(昭和34年)10月「奥田雀草・武者小路実篤二人展」(大阪・中宮画廊)。雀草の俳画展は1933年(昭和8年)に神戸で初めて開催され、戦後は神戸三越を中心に西日本各地で開催された。
  23. ^ 現在も京都の和菓子の包装紙などに奥田雀草の俳画を使ったものが見られる。北野名物「長五郎餅」の包装紙には雀草の絵と句「豊公の昔をしのぶもち一つ」が用いられている。菓匠柳苑の和菓子「落柿舎」の包装紙は保田與重郎の題字に雀草が蓑笠と柿の絵を添えたものだった。
  24. ^ 現在は立命館大学国際平和ミュージアムに引き継がれて開催されている。
  25. ^ 句集『一本しかない道』「奥田雀草の俳句・俳画歴」松下ふじ枝
  26. ^ 「高原」に発表された作品を中心に口語自由律俳句328句を収録。二行表記。編年体ではなく、旅、ふるさと、平和への祈りなどテーマごとの章立てとなっている。なお、この句集は松下ふじ枝らの尽力でなったものである。松下はかつて神戸三越の美術部に勤務。雀草俳画展の多くは松下によって企画された。雀草没後も句集出版や句碑建立を行うなど、雀草の業績の顕彰に努めたが、1995年(平成7年)阪神・淡路大震災で亡くなった。
  27. ^ 小寺歡二は雀草の神戸時代の盟友。雀草を師と仰ぎ、一緒に暮らしていた時期がある。句集『濤に佇つ』を出版するなど雀草を経済的にも支えたが、ほどなく召集されて戦死。後年、雀草が護憲・反戦を訴えたのは蜷川虎三、田畑忍、末川博らとの交流も背景にあるが、体験的には彼の死によるところが大きかったのではないかと考えられる。
  28. ^ 序文で吉井勇は雀草の句を「雀草君の句境といふものは温籍典雅の四字に尽きると思ふ。(略)母と子とある雀草君の句境は、或る意味では宗教的な三昧境に達してゐるやうにさへ思はれるのである」と評している。

参考文献

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外部リンク

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