奥田木白
奥田 木白(おくだ もくはく、寛政12年(1800年) - 明治4年2月13日(1871年4月2日))[1]。江戸末期から明治初期の陶工。赤膚焼の中興の祖として知られる[2]。
経歴
[編集]大和国郡山城下(現奈良県大和郡山市)の堺町で生まれる。幼名は亀松といい、名を佐兵衛、後に31歳で武兵衛と改めた(『家伝覚書』)。奥田家は堺町で郡山藩御用小間物商「柏屋」を営んでいた[3]。木白という名前は、俳号であり、屋号の「柏屋」の「柏」を二つに分けて称した名前で[4]、別号には木々斉、五行庵がある[2]。 木白は平素から茶を嗜み、楽焼を楽しみで始め、天保6年5月には本格的に作陶して郡山九条(現・大和郡山市九条町)の西大寺屋窯で焼いていたとされる。天保7年西大寺に大茶盛用の茶碗揃い5つを奉納する。天保11年41歳のとき伊之助の中の窯、五条村(現・奈良市五条町)に依頼し焼いていたが、それで多くの製陶の注文を受けて、後に嘉永3年(1850)頃、家業をやめて本業も、陶工になった(『家伝覚書』)[5]。店には「模物類 瀬戸 松本萩 唐津 高取 青磁人形手 御本半使 南蛮ならび楽焼類 木白」という墨書きの木製の看板を掲げ、多様な写し陶器の注文を受けるとしていた[6][4]。
明治元年2月69歳で老いて何事も手につかず、同2年9月6日、10月13日歩行困難になることも2回ありその後も続き、明治4年2月13日老衰で死去した。享年72歳[7]。
作風
[編集]木白は、窯元経営や修行の経験はない。本格作陶前から近隣の大坂屋太七[注釈 1](号・秘斎)と楽焼など楽しむ。郡山藩医で楽焼もした青木木菟から指導を受ける[9]。
- 天保6年5月本格的に「楽焼」から始め、天保10年楽焼の金銀絵・紺色絵・錦絵の焼成技法を礼金5両で南都重兵衛に学ぶ。さらに稗田村(現・大和郡山市稗田町)の瓦安から黒楽焼の釉薬調合製法の伝授を受ける。
- 天保11年伊之助窯で楽焼釉薬の口伝を受ける。さらに「萩焼」を始め工夫を重ねる。[10]。
「仁清写し」「里恭写し」などが得意で、また「奈良絵風」のものや、森川杜園などの一刀彫の味を陶器で写すことにも励んだ[4]。木白や息子の二代木白・木左の残した業績は大変に大きく、地方窯であった赤膚焼を、芸術性ある名陶として、広く世に知らしめた。その流れは受け継がれ、木左の早世後、一時衰微するが、昭和時代に入ってから茶道の隆盛ともに赤膚焼は再び盛り返して6窯元の現在に至る[4]。
作品
[編集]- 春夏々秋冬 - 5つ揃いの楽焼茶碗:西大寺所蔵・寄進状 現存(『楽焼之口伝控帳』、『家伝覚書』)[11]
- 黒釉抹茶碗[注釈 2]
- 住吉明神人形:森川杜園の奈良人形の赤膚焼写し[4]。
- 柿釉富士茶碗/珠光青磁茶碗/鉄絵海老画茶碗/秋草画茶碗[12]
著作
[編集]([15])
- 浮世の遊免 - 随筆[2]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 高橋 1993, p. 449、453.
- ^ a b c 高橋 1993, p. 449.
- ^ 高橋 1993, p. 466.
- ^ a b c d e 大和郡山市教育委員会『赤膚焼と奥田木白展示品解説・目録』2017年2024年10月8日閲覧
- ^ 高橋 1993, pp. 470、498.
- ^ 高橋 1993, p. 443.
- ^ 高橋 1993, p. 453.
- ^ 高橋 1993, p. 434.
- ^ 高橋 1993, pp. 434–435.
- ^ 高橋 1993, pp. 432-435、469.
- ^ 高橋 1993, p. 468.
- ^ 「木洩れ日庵」辻井コレクション、木白150回忌記念『奥田木白・名品茶碗の世界Ⅴ』奈良市なら工藝館2020年展覧会・主要4品:奈良県ビジターズビューロー2024年10月9日閲覧
- ^ 高橋 1993, p. 468、473.
- ^ 高橋 1993, pp. 496、498.
- ^ 雑誌『陶説』 558号 1999年9月号 日本陶磁協会「近世の茶碗(136)奥田木白」黒田和哉
参考文献
[編集]- 高橋隆博『漆芸文化史の研究』(博士 (文学)論文・関西大学 文学部 史学科専攻)関西大学、1993年9月21日。doi:10.11501/3092858。学位授与番号:乙第165号 。2024年10月8日閲覧。