奥田忠高
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 大永2年(1522年) |
死没 | 慶長6年4月15日(1601年5月17日) |
別名 | 通称:八郎右衛門、三郎右衛門[1][2] |
戒名 | 道虚 |
官位 | 主税助、三河守[1][2] |
主君 | 松永久秀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康 |
氏族 | 藤原姓奥田氏[1] |
父母 | 父:小山八郎右衛門、養父:奥田兼重 |
子 | 彦三郎、勘兵衛、直高、忠次、喜左衛門、助左衛門、九郎右衛門、他[3] |
奥田 忠高(おくだ ただたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。大和国畑城主。
生涯
[編集]大永2年(1522年)、小山八郎右衛門の子として誕生し、のちに奥田兼重の養子となる[1]。
大和国山辺郡の豪族で[2]、松永久秀に属した[1][2]。元亀3年(1572年)4月に、久秀と三好義継が畠山氏の交野城を攻めた際、忠高は山口六郎四郎とともにその付城に置かれたが、織田軍が救援に現れたことにより城から脱した(『信長公記』)[2][4]。
その後、織田信長に属す[1][2]。『織田系図』によると、天正元年(1573年)8月、浅井氏が滅亡した際に「奥田三河守」が信長に降っている[2]。
信長の死後は豊臣秀吉に仕えたが、辞して大和国畑(現在の奈良県山添村[5])に寓居した[1][2]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後[1]、山岡景友の仲介で徳川家康に仕え、大和国山辺郡と紀伊国名草郡に2,800石を与えられた[1][2]。
慶長6年(1601年)4月15日、死去[1][2]。享年80[1][2]。法名は道虚[1]。
忠高の跡を継いだ子の忠次は、大坂夏の陣で後藤基次と激闘の末に戦死[3]。その子孫は江戸幕府の旗本として続いた[6]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 堀田ほか 1923, p. 975.
- ^ a b c d e f g h i j k 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、106頁。ISBN 978-4-642-01457-1。
- ^ a b 堀田ほか 1923, pp. 976–977.
- ^ 中川貴皓「松永久秀被官に関する一考察 : 山口秀勝を中心に」『奈良史学』第30号、奈良大学史学会、2013年1月、61頁、CRID 1050863483155755136、ISSN 02894874。
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 29 奈良県』角川書店、1990年、883-884頁。ISBN 4-04-001290-9。
- ^ 堀田ほか 1923, pp. 977–979.
参考文献
[編集]- 堀田正敦ほか 編「巻第九百四十五 藤原氏 支流」『寛政重脩諸家譜 第五輯』國民圖書、1923年。全国書誌番号:21329095 。