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奥村栄頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
奥村栄頼
時代 江戸時代
生誕 不詳
死没 寛永8年4月4日1631年5月5日
改名 右近孝行→摂津守孝行→摂津守栄頼
別名 三郎兵衛、右近、摂津守(通称
主君 前田利長前田利常
加賀国加賀藩
氏族 奥村氏
父母 父:奥村永福
兄弟 栄明易英奥村栄頼
寺西宗与の娘
右近
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奥村 栄頼(おくむら はるより)は、江戸時代初期の武将。前田氏の家臣。奥村永福の子。発給文書で確認される実名()は孝行、のち栄頼

奥村永福の三男。末森合戦の頃から活躍する兄栄明易英とは異なり、史料上では慶長12年(1607年)2月の白山万句「奥村右近孝行」が初見[1][2]。後に対立する横山長知康玄長重(長治)とは、この頃は親しかったようで[3]、主催する連歌に出席が確認されている。

慶長16年(1611年)、直江勝吉(本多政重)が藤堂高虎の推挙で前田家に再登用されたが、登用に積極的であった利長とは異なり、利常は勝吉が上杉家を離れた件から消極的であった。利長は近習の駒井重勝を介して利常を説得する書状を孝行に宛てており、この頃から利常に近侍していたようである[4]

慶長17年(1612年)には、七尾当麻氏の諸役を安堵する書状に岡島一吉と連署している[5]。同年12月、本多政重が仕置職を辞任しようとするが、主君利常の説得により翻意して留まった。その際、政重が他の家老に宛てた書状に、伊予守(永福)・河内守(栄明)と共に名前が見え、奥村一門として利常に重用されていたことがわかる[6]

翌年、埴生八幡宮利常室安産のため、栄明と連名で米30俵を寄進し[7]を孝行から栄頼に改名する。同年5月、利常が家督継承の挨拶で駿府徳川家康の許に赴いた際には、家老として長知・栄明と共に家康に謁見している[8]

慶長19年(1614年)2月、横山長知・康玄・長治親子が利常の勘気を受けて処断されそうになり、比叡山に出奔する[9]。後世編纂された「前田家雑録」などには、栄頼が長知を利常に讒言して出奔させ、さらに篠原一孝に長知を討ち取らせようとするが、かねてから栄頼と仲が悪かった一孝はこれを拒絶したという[10]。その後も利常の重用は続き、同年6月には利長が没した後の仕置を政重・前田長種と共に命じられ[11]、同年7月・9月に家康に謁見している[12]

ところが、大坂冬の陣で政重・長連龍と共に二番備に属した記録を最後に、栄頼の名は前田家から消える。後世編纂された史料には、

  • 真田丸突入時に銃撃を受けた、旗が崩れた、などの失態を犯したので利常の勘気を受けて出奔した
  • 冬の陣直前に帰参した横山長知が功を立てたので、面目を失って自ら出奔した
  • 冬の陣後、1万8000石に加増されたが、栄頼は軍役通り3万石を要求したので折り合いが付かずに出奔した

などの諸説があるが、いずれにせよ、冬の陣後に利常の勘気を受けて前田家を離れたことは確かである[13]

寛永8年(1631年)4月4日、京都にて没したという。

脚注

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  1. ^ 『白山万句 資料と研究』P89
  2. ^ 後世編纂された「象賢記略」には、珠姫輿入れの際に手取川で出迎えた利長の小姓20人の1人に奥村右近(孝行)の名前が見える。
  3. ^ 奥村一門は可郷(後に栄郷→易英)、孝行、長之(周防守。後に源左衛門長元。永福の弟の孫)のみ参加。
  4. ^ 「(慶長16年)5月7日奥村摂津守(孝行)宛駒井中少(駒井守勝(重勝))書簡」 『高岡法科大学紀要』20号、P102
  5. ^ 「慶長17年7月6日岡(島)備中守一吉・奥(村)摂津守孝行連署状」(当麻氏文書)『新修七尾市史4 村方編』、P70
  6. ^ 「(慶長17年)12月18日奥村伊予守(永福)・奥村河内守(栄明)奥村摂津守(孝行)宛本多安房守(政重)書簡」『加賀藩史料 第2編』、P164-165
  7. ^ 「慶長18年2月1日奥村河内守栄明・奥村摂津守栄頼連署状」(埴生八幡宮文書)『加賀藩史料 第2編』、P170
  8. ^ 『加賀藩史料 第2編』、P175.出典は『天覧日記』
  9. ^ 「(慶長19年)2月22日・本多安房守(政重)宛(前田)肥前守利長書簡」『加賀藩史料 第2編』、P197-198
  10. ^ 『加賀藩史料 第2編』、P199
  11. ^ 『加賀藩史料 第2編』、P226-227
  12. ^ 『加賀藩史料 第2編』、P233、236-238、出典は『天覧日記』
  13. ^ 『加賀藩史料 第2編』、P366-369

参考文献

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