奥村博史
奥村 博史(おくむら ひろし、1889年(明治22年)10月4日 - 1964年(昭和39年)2月18日)は、日本の洋画家、工芸家[1]。妻は社会運動家の平塚らいてうである[1][2]。
生涯
[編集]1889年(明治22年)、藤沢市に奥村市太郎の長男として生まれる。藤沢小学校、逗子開成中学校を卒業[2]。
1909年(明治42年)、画家を志すことを父に伝えるも許されず、家出をして上京した。大下藤次郎主宰の日本水彩画研究所に入学[2]。1911年(明治44年)に大下が亡くなると油絵に転向した。
1912年(明治45年)、巽画会に油絵『青いリンゴ』を出品した[2]。
1914年(大正3年)に婦人運動家の平塚らいてうと恋愛結婚し話題となる[1]。第一回二科展に油絵『灰色の海』を出品し入選した[2]。
1925年(大正14年)、日本水彩画会会員となったほか、成城学園の美術講師に就任した[2]。
1930年(昭和5年)頃から自宅アトリエでデッサンの勉強会を毎週開くようになり、武者小路実篤らと知り合う[2]。
1932年(昭和7年)に交詢社4階で自身の油絵の個展を開催した[2]。
1933年(昭和8年)、富本憲吉の勧めで自作した銀指輪を国展に出品し受賞[2]。これにより国画会会員となる。これ以来、画業とともに指輪の製作も行うようになる。
1936年(昭和11年)に日本水彩画研究所時代からの旧友:赤城泰舒とともに中国へ写生旅行へ向かい、上海市滞在中に油絵『臨終の魯迅像』(上海魯迅記念館蔵)を描いた[2]。
1964年(昭和39年)死去。
人物
[編集]武者小路実篤らが創設した共同体「新しき村」に美術部として所属していた[2]。
平塚らいてうと恋に落ちた際、自ら身を引くことを選び平塚に「若い燕は池の平和のために飛び去って行く」という手紙を送ったことが、年上の女性に養われる若い男性のことを表す「若いツバメ」という言葉の由来となった[3]。
作品
[編集]油絵
[編集]- 『青いリンゴ』
- 『灰色の海』
- 『臨終の魯迅像』
工芸
[編集]書籍
[編集]- 自伝『めぐりあい』[1]
- 『奥村博史素描集』
- 『奥村博史わたくしの指輪』
脚注
[編集]外部リンク
[編集]- 奥村博史 おくむら ひろし - コトバンク