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奥村博史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
奥村博史と平塚らいてう。1914年夏、伊豆の土肥温泉にて。

奥村 博史(おくむら ひろし、1889年明治22年)10月4日 - 1964年昭和39年)2月18日)は、日本洋画家工芸家[1]。妻は社会運動家の平塚らいてうである[1][2]

生涯

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1889年(明治22年)、藤沢市に奥村市太郎の長男として生まれる。藤沢小学校、逗子開成中学校を卒業[2]

1909年(明治42年)、画家を志すことを父に伝えるも許されず、家出をして上京した。大下藤次郎主宰の日本水彩画研究所に入学[2]1911年(明治44年)に大下が亡くなると油絵に転向した。

1912年(明治45年)、巽画会に油絵『青いリンゴ』を出品した[2]

1914年大正3年)に婦人運動家の平塚らいてう恋愛結婚し話題となる[1]。第一回二科展に油絵『灰色の海』を出品し入選した[2]

1925年(大正14年)、日本水彩画会会員となったほか、成城学園の美術講師に就任した[2]

1930年昭和5年)頃から自宅アトリエデッサンの勉強会を毎週開くようになり、武者小路実篤らと知り合う[2]

1932年(昭和7年)に交詢社4階で自身の油絵の個展を開催した[2]

1933年(昭和8年)、富本憲吉の勧めで自作した銀指輪を国展に出品し受賞[2]。これにより国画会会員となる。これ以来、画業とともに指輪の製作も行うようになる。

1936年(昭和11年)に日本水彩画研究所時代からの旧友:赤城泰舒とともに中国へ写生旅行へ向かい、上海市滞在中に油絵『臨終の魯迅像』(上海魯迅記念館蔵)を描いた[2]

1964年(昭和39年)死去。

人物

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武者小路実篤らが創設した共同体「新しき村」に美術部として所属していた[2]

平塚らいてうと恋に落ちた際、自ら身を引くことを選び平塚に「若いは池の平和のために飛び去って行く」という手紙を送ったことが、年上の女性に養われる若い男性のことを表す「若いツバメ」という言葉の由来となった[3]

作品

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油絵

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  • 『青いリンゴ』
  • 『灰色の海』
  • 『臨終の魯迅像』

工芸

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書籍

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  • 自伝『めぐりあい』[1]
  • 『奥村博史素描集』
  • 『奥村博史わたくしの指輪』

脚注

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  1. ^ a b c d 20世紀日本人名事典. “奥村 博史とは”. コトバンク. 2022年3月15日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 奥村博史 :: 東文研アーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 2022年3月15日閲覧。
  3. ^ 若い燕 | ルーツでなるほど慣用句辞典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス”. 情報・知識&オピニオン imidas. 2022年3月15日閲覧。

外部リンク

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