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奈良晃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

奈良 晃(なら あきら、1888年明治21年)12月6日[1][2] - 1964年昭和39年)1月5日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

略歴

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長崎県出身[1][2][3]。奈良正英の長男として生まれる[1]。大村中学校(現長崎県立大村高等学校)を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業[1][2][4]。士官学校では岡田資陸軍中将と同期であった。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる[1][4]参謀本部付勤務などを経て、1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業した[1][2][3]

1921年(大正10年)4月、参謀本部付勤務となり、歩兵第46連隊中隊長、参謀本部付(上海駐在)、参謀本部員を務め、1925年(大正14年)9月アメリカ駐在となり米陸軍歩兵学校で学んだ[1]。1927年(昭和2年)5月、歩兵少佐に昇進し、同年12月に帰国[1]。1931年(昭和6年)3月、歩兵中佐に進んだ[1]。同年12月、第20師団参謀となり、第2師団参謀、近衛歩兵第4連隊付、第12師団参謀を務め、1935年(昭和10年)8月、歩兵大佐に昇進し本郷連隊区司令官に就任した[1][3]

1936年(昭和11年)12月、独立歩兵第12連隊長に転じ、豊橋陸軍教導学校歩兵生徒隊長を経て、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し留守第9師団司令部付となる[1][2][3]。1939年(昭和14年)3月、歩兵第26旅団長に発令され日中戦争に出征[1][2][3]宜昌作戦などに参戦した[2]。1941年(昭和16年)3月、陸軍中将に進み第65独立歩兵団長に就任[1][2][3]。同年10月、独立歩兵第65旅団長に充用され太平洋戦争に出征[1][2][3]フィリピンの戦いに参戦した[2]。1942年(昭和17年)11月、西部軍司令部付[1][注 1]となり帰国し、1943年(昭和18年)1月、予備役に編入された[1][2][3]

1945年(昭和20年)7月、召集を受け西部軍管区司令部兵務部長に就任し、同年10月、召集解除となった[1]。その後、BC級戦犯容疑で逮捕され、1946年(昭和21年)10月、終身刑の判決を受けた[1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。1952年(昭和27年)8月、巣鴨拘置所から釈放された[1]

その後、全国肢体不自由児学校PTA連合会長を務めた[1]が、長女が嫁いだ佐上信一の長男(戦死)との間に生まれた孫が、ポリオウイルスに感染した事が影響しており、孫の通う東京都立光明学園のPTA会長になった事から始まっている。出身地の長崎県繋がりもあり力道山の初代後援会長も努めていた。

因みに、1974年(昭和49年)にルバング島から帰国した小野田寛郎は遠縁にあたる。

栄典

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親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』292頁では参謀本部附。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『日本陸海軍総合事典』第2版、110頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 『日本陸軍将官辞典』541頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』292頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』289、292頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」106頁。
  6. ^ 『官報』第3861号「叙任及辞令」1939年11月17日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。