太田徳三郎
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太田 徳三郎(おおた とくさぶろう、1849年9月4日(嘉永2年7月18日[1][2]) - 1904年(明治37年)9月7日[3][4][5][注 1])は、幕末の広島藩士、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は従四位勲二等功四級[3]。旧姓は田中[3][5]。
経歴
[編集]広島藩士[5]。太田庫三の長男[1]。1868年(明治元年)藩命によりフランスへ留学する[5]。1875年(明治8年)柏村庸、石川敬直、星山貞吉、多久正典らと陸軍省7等出仕を拝命し[3]、同年10月、士官学校教官となり、1877年(明治10年)4月、陸軍大尉に進む[2]。欧米出張を経て、1882年(明治15年)陸軍砲兵少佐に進み、1885年(明治18年)2月、大阪砲兵工廠に出仕する[2]。1889年(明治22年)3月、要塞砲兵幹部練習所長、1890年(明治23年)10月、大阪砲兵工廠提理を経て、1892年(明治25年)11月、陸軍砲兵大佐に進み[6]、日清戦争では兵器、弾薬の製造、修理にあたった[5]。1897年(明治30年)9月、陸軍少将に進み、1902年(明治35年)5月、陸軍中将に進級と同時に予備役に編入した[4][6]。1904年(明治37年)6月、日露戦争の勃発に伴い召集を受け工兵監事務取扱となるが[4][6]、間もなく大阪で没した[3]。
栄典
[編集]- 位階
- 1877年(明治10年) - 正七位[3]
- 1882年(明治15年)8月17日 - 従六位[2]
- 1897年(明治30年)10月30日 - 正五位[2]
- 1902年(明治35年)8月20日 - 従四位[2]
- 勲章等
- 1882年(明治15年)12月25日 - 勲五等双光旭日章[2]
- 1885年(明治18年)2月14日 - 勲四等瑞宝章[2]
- 1897年(明治30年)5月10日 - 勲三等瑞宝章[7]
- 1902年(明治35年)9月7日 - 勲二等瑞宝章[2]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』28頁では9月6日没。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所 編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年 。
- 大植四郎 編『国民過去帳 明治之巻』尚古房、1935年 。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496。