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太清寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
太清寺
所在地 愛知県春日井市勝川町2丁目14-3
位置 北緯35度13分22.0秒 東経136度56分56.0秒 / 北緯35.222778度 東経136.948889度 / 35.222778; 136.948889座標: 北緯35度13分22.0秒 東経136度56分56.0秒 / 北緯35.222778度 東経136.948889度 / 35.222778; 136.948889
山号 龍源山
宗派 臨済宗妙心寺派
法人番号 4180005008133 ウィキデータを編集
太清寺の位置(愛知県内)
太清寺
太清寺
太清寺 (愛知県)
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太清寺(たいせいじ)は愛知県春日井市勝川町にある臨済宗妙心寺派寺院である[1][2]

歴史

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昔、太清寺は醍醐山龍源寺と呼ばれていた。創建年月は不明である。この地は住古、安食荘の一部で、後の醍醐荘の地であるから真言宗であった[1][2]と推測される。天正12年(1584年)4月、徳川家康小牧・長久手の戦いに向かう途中に龍源寺内の阿弥陀堂で休憩した[1][2]。さらに、家康は出発の際、阿弥陀堂を焼き払った[3]。その後、寺は荒廃が続き、慶安4年(1651年)名古屋の宝林寺の舊岩和尚が荒廃の事を嘆き、弟子である宗悦に再建させた。さらに、寛文3年(1663年)に寺号を龍源山太清寺と改めた。阿弥陀堂は承応2年(1653年)に再建されたが、天保8年(1837年)に本堂および阿弥陀堂は台風で大破した。その後、嘉永3年(1850年)に本堂が再建され、阿弥陀堂は明治5年(1872年)に再建された。昭和55年(1980年)に国道19号の拡張工事のため、再び太清寺に建設された。

境内

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門をくぐると、参道の左には十王堂、左手奥には本堂、奥には薬師堂がある。境内の面積は七反五畝二十歩で坪に換算すると2270坪になる。内訳は薬師堂境内が一反步、寺境内松林が六半歩、寺境内年貢地は五畝二十歩になる[4]

薬師堂

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薬師堂

境内の薬師堂は、創建年月は不明。再建されたのは慶安4年(1651年)である。

十王堂(阿弥陀堂)

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十王堂

勝川村内にある阿弥陀堂は、敷地東西二十五間、南北十六間。

阿弥陀堂の創建年月は不明。かつては龍源寺(太清寺)境内の東に位置し、八間四方の堂字であった[4]

本堂

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本堂

境内奥の左側にある。

阿弥陀如来像

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阿弥陀堂の焼失した余木を使って、阿弥陀如来像を彫刻し堂字を建立安置された[4]

宝物

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  • 大般若経六百巻[1]
  • 理趣分経一巻[1]
  • 法華経八巻[1]
  • 仏祖山経三巻[1]
  • 臨済録一巻[1]

エピソード

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家康は庄屋長谷川甚助を呼び、この土地の名前を尋ねたところ「勝川村」と申し上げたところ、「出陣の門出に勝川とは縁起のよいことだ」と大変お喜びなった。また、甚助の妻が差し出した牡丹餅を食べようとしたが、箸が1本折れて顔を曇らせた。すると、甚助が「これはまさしく天下は一本に成るの吉兆でございます」と申し上げたところ笑顔となり、牡丹餅を召し上がられ、軍を指揮して勝川を渡り戦場に向かわれた[4]

所在地

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  • 〒486-0945:愛知県春日井市勝川町2丁目14-3

交通アクセス

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脚注

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参考文献

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  • 春日井市(編) 編『春日井市史』 本文編(再版)、春日井市、1979年。 
  • 春日井市(編) 編『春日井の寺院』春日井市教育委員会、1981年。 
  • 春日井市(編) 編『春日井市史』 地区誌編3、春日井市、1986年。 
  • 田口英爾『龍源山 太清寺小史』太清寺復興三百五十年記念誌発行委員会、2002年。 
  • 長谷川良市『勝川今昔ものがたり』風媒社、2003年。 
  • 樋口好古 著、蓬左文庫(編) 編『尾張徇行記』 第3巻 春日井郡之部、愛知県郷土資料刊行会、1976年(原著1822年)。