コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

太平妙準

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
太平妙準
建治2年 - 嘉暦2年 閏9月24日
1276年 - 1327年11月8日
諡号 仏応禅師
宗旨 臨済宗
高峰顕日約翁徳倹
弟子 大喜法忻中山法穎無二法一芳庭法菊[1]
テンプレートを表示

太平妙準(たいへい みょうじゅん)は、鎌倉時代臨済宗仏光派、のち仏国派の禅僧

経歴・人物

[編集]

建治2年(1276年)生まれ。下野の人。俗姓は平氏。幼年にして下野雲巌寺高峰顕日に、鎌倉円覚寺建長寺約翁徳倹に師事し、高峰顕日の法を嗣ぐ[2]。高峰顕日の没後、第2代住持として雲巌寺に住し、のち鎌倉浄智寺の住持をつとめた[2]嘉暦2年(1327年)閏9月24日示寂。世寿52歳。浄智寺内の高峰の塔所正統庵に合わせて塔じられた。
 最も長く高峰顕日に随侍した第一の高足であった。同じく高峰の法嗣である一歳年上の夢窓疎石と非常に親しく、元応元年(1319年)雲巌寺の住持を辞す際、後任として夢窓を推挙する。覚海円成尼の命で土佐吸江庵より相模に戻って来て勝栄寺に仮寓していた夢窓を自ら複数回訪れて要請し、覚海円成尼もそれに尽力したが夢窓は固辞し、不首尾に終わった。夢窓は、太平が亡くなると、その骨器の銘を撰文自刻し[3]、浄智寺に太平の独自の塔として正源庵を新建するなど、太平の恩に報いた。夢窓による骨壺の銘で、示寂日と世寿が判明した。
 法嗣の大喜法忻着賛の貞治2年(1363年)作の「太平妙準像」が雲巌寺に現存する[4]

脚注

[編集]
  1. ^ 人名規範資料庫 「太平妙準」。
  2. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『太平妙準』 - コトバンク
  3. ^ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/208155 「銅造仏応禅師骨壺」(重要文化財)
    荻野三七彦「仏応禅師骨壺と貞時追悼経筒」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』5号(1959年11月)→『日本中世古文書の研究』荻野三七彦博士還暦記念論文集刊行会(1964年)
    荻野三七彦「再び『仏応禅師骨壷』について」『金沢文庫研究 』112号(1965年5月)
  4. ^ 4842_太平妙準(仏応禅師)像(雲巌寺) :: 東文研アーカイブデータベース、2019年2月2日閲覧。