太姒
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太姒 | |
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周の王妃 | |
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別称 | 文定皇后 |
配偶者 | 文王 |
子女 | 伯邑考、武王、管叔鮮、周公旦、蔡叔度、曹叔振鐸、成叔武、霍叔処、康叔封、冉季載 |
氏族 | 有莘氏姒姓 |
有莘姒氏の娘として生まれた。文王は渭水に舟を並べて橋を作り、太姒を迎えた。太姒は太姜や太任を慕って、朝に夕に勤労し、婦道を推し進めた。太姒は号を文母といった[1]。太姒は文王とのあいだに10人の男子を産んだ。伯邑考・武王・管叔鮮・周公旦・蔡叔度・曹叔振鐸・成叔武・霍叔処・康叔封・冉季載の10人である[2]。
太姒が10人の子を教育すると、子どもたちが成長しても悪癖を見ることがなかった[1]。『詩経』に「大邦有子、俔天之妹、文定厥祥、親迎于渭、造舟為梁、不顕其光」(大国に優れた娘があり、天の妹にもたとえられる。文王は礼をもってその吉祥を定め、自ら渭水に迎えに行き、舟を並べて橋を作った。その栄光の輝かしいことよ)[3]と謡われ、また「太姒嗣徽音、則百斯男」(太姒は太任の名声を継いで、たくさんの男子を生んだ)[4]と讃えられた。
690年(天授元年)、武則天により太姒は文定皇后と追号された[5]。