天野貞有
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 元和4年6月4日(1618年7月25日)[1] |
別名 | 又太郎、清右衛門[1] |
戒名 | 道心[1] |
主君 | 松平清康、広忠、家康 |
氏族 | 天野氏[2] |
父母 | 天野康弘[注釈 1][1] |
兄弟 | 貞有、平岩親重の妻[4] |
子 | 貞久、正知[1] |
天野 貞有(あまの さだあり)は、戦国時代の武将。松平氏の家臣。
略歴
[編集]三河天野氏の一族で額田郡板田の住人で、後に安祥に住んだ[5]。父の康弘は岡崎城主・松平清康に仕え、石川清兼・青木重家・酒井正親・酒井忠次とともに奉行衆を務めた。貞有もまた清康に仕え、内藤義清・石川忠輔・植村氏義・林忠満とともに岡崎五人衆と称されたという[5]。次の松平広忠の代には代官を務めるなど内政に関与し、三河国内に14郷を与えられた。天文11年(1542年)広忠の嫡男・竹千代(徳川家康)が生まれると、妻がその乳母となっている。家康の代には永禄6年(1563年)三河一向一揆の平定戦で、勝鬘寺勢との戦いに武功があった[3][1][4]。
なお発給文書上から見られる16世紀前半の天野清右衛門家は、永正15年(1518年)の忠末、天文5年(1536年)の忠親、同24年(1555年)の康親[注釈 2]であり、『寛政重修諸家譜』に見られる政則―康弘―貞有や、『士林泝洄』に見られる利貞―貞親―貞有の名は見られない[7]。